大戦間のまぼろし 1919-1929 ウソでなければかけない真実 

「屋根の上の牡牛の時代」モーリス・サックス岩崎力訳1994/3リブロポート刊
“繁栄の時代の若いブルジョワの日記”と副題されたこの本を読み終わって、すぐの頃、或る酒場でこの本の話を始めたところ、「ああ、あの本はウソばっかりです」と切り捨てられて、その時は話の接ぎ穂もなくそのままになってしまったことがあった。
今になって思うと、ここで語られる主人公の暮らしは経済的にも、精神的にもあまりにも恵まれすぎている、夢のような暮らし、でありすぎる。ここに登場する固有名詞の氾濫は、もう、個人の交際範囲としては夢でしかあり得ない。とおもいたいくらいだ。とはいえ、アンドレ・フレニョーの序文にもあるとおり、「一九四七年の今日、私の意見に反して正しいのは彼の方である」ということなのだ。

ウソでなければ書ききれない真実といえば、素天堂の頭に浮かぶのは、ガートルード・スタインが自分の恋人の名前で書いた「アリス・B・トクラスの自伝」があって、第一次大戦後におけるパリの空気を思う存分味わうことができたものだった。時代は同じだが、登場人物が微妙に違い、あたかも補完しあっているようにも思える。強いていえば、こちらの方の感覚がちょっと保守的かもしれない。ディアギレフ、シャネル、ミシア、コクトーやジャン・ユゴー、そのつれあいとなる美しいヴァランティーヌ・グロッスのアパルトマンの証言など、など。ここに登場するその当時の最先端をいく人物群像は、譬えウソでも、いや、ウソだからこそ噂話のパッチワークとして、当時の真実を的確に表現できたかもしれないのだ。例えばこんな注がある。

一九二八年「アポロ」のあとで、ディアギレフはリファールの足に接吻した。そして彼に言った。「私が男性の足に接吻したのは一度しかない。『薔薇の精』のあとのニジンスキーだけだ」

ね、たとえ、ウソだとしても、こんなうそがよみたいものでしょう?
ヴァランティーヌ・ユゴー(グロッス)が書いたこんな絵もありました。
 ラディゲです。