取りあえず検索やってみました。vol.4

新青年版ではバルバロッサだったが、新潮社版単行本では、スピノザに代わっている件。結局は新青年版には直接関係ないのだが、小酒井不木全集第七巻『医談女談』所収のエッセイ「死者の蘇生」中に、蘇生の例として、引用元は書かれていないが、フィリップ二世の宰相であった大僧正エスピノラ、という記述が登場しているのを発見し、フェリペ二世と関係するエスピノラを調べてみた。
バルバロッサについては既述だが、「黒死館」新潮社版本編には、十六世紀の中葉フィリップ二世朝、宗教裁判副長のスピノザ KYL261 SML442 として、登場している者と推測できる。実際には語感が近いだけのように思われるが、フェリペ二世とエスピノラとの関連を調べているうちに小酒井の記述に誤記があることに気がついた。まず不木の表現通りのエスピノラAmbrosio Spinola, (1569-1630)は、フェリペ四世時に侯爵として登場するが、別名初代ロス・バルバセス侯爵であり、宗教的な功績より、軍人として名高く、十七世紀スペイン王室外交において、オリヴァレス伯爵と対立していた人物であった。

そこで、虫太郎の本文に近いフェリペ二世と関係のあるエスピノザを調べて見た。
Diego de Espinosa y de Arévalo (1502–1572)はフェリペ二世時、スペインカトリック教会の重鎮であり、宰相として王の信任厚かく、最晩年(1566–1572)にはスペイン宗教裁判所の長官を務めていた。それ故、彼の死体をミイラ化して保存しようとしたところ、胸腔に入ったメスの衝撃で蘇生し、そのメスを振り払ったが、その傷が因となって死亡したというエピソードが残されている。
死者の蘇生のエピソードといい、宗教裁判所の長官であることといい、虫太郎は不正確ではあるが、何らかの資料を参照していたものと思われる。

で、こちらは不詳で済ませた人物がハルトマンの資料に登場していたと云うことの報告。
ボルドーの監督僧正(エピスコーポ)ドンネ KYL211 SML393
本文中ではドルムドルフの「死仮死及び早期の埋葬(ルビ:トツト・シヤイントツト・ウント・フリユーヘ・ベールデイグンダ)」に掲載されていると書かれていたが、実際には当該書籍の発行は1820年で、ドンネの仮死事件は文中のエピソード通りなのだが、事件は1826年のことであり、掲載については虫太郎の捏造であることが明らかになった。
Ferdinand-François-Auguste Donnet (1795-1882)

少し長いが、小酒井不木による記述を以下に引用する。
 前世紀の末に、フランスの元老院で、埋葬の問題が議案となったことがある。そのとき、大僧正ドンネーは立ち上がって次の物語をした。
「一八二六年の夏の終わり頃のことです。ある教会には、会衆が潮のように集まって、ある若い僧侶の説教をきいておりました。すると、どうした訳か、その僧侶の言葉が突然不分明となったかと思うと、間もなく教壇の上にばたりとたおれました。 人々は驚いて駆けより、直ちに彼をその家に運びましたが、彼はすでに絶命しておりました。数時間の後、死を告げる鐘は悲しく響き渡り、葬儀の用意は万端ととのいました。
 ところが、死んだと思った僧侶は、その実生きていたのであります。彼の視覚は完全に失われていましたが、彼の聴覚だけは残存して、人々の話し声を聞きわけることが出来ました。けれども悲しいことに、彼は物を言うことも出来ず、手足を動かすことも出来ませんでした。
 彼の周囲に集まったものの話し声は、どれもみな彼を恐怖せしめました。医師は彼を診察して、彼の死を宣言し、明朝埋葬してもよいという許可を与えました。彼が平常尊敬している教会の監督は、床のそばに来て詩篇第百三十を誦しました。次いで彼の身体は棺の中に収められ、やがて夜となりました。
 すると弔問の客の中に、彼は彼の幼時から聞き馴れた人の声をききわけました。このことが彼に不思議な力を与えたのでありました。彼は必死の努力を出して、うーんと唸ることが出来たのであります。
 それから後の混雑と歓声とは申すに及ぶまいと思います。彼ははや翌日教壇に立って、再び健康者として説教することが出来ました。
 今日、この元老院で、埋葬の問題が議せられるに当たって、私は諸君が、この四十余年前の一例を顧慮して、慎重な考案をめぐらされむことを切に切に希望します。と申すのは、そのときの若い僧侶こそ、かく申す私自身だったからであります」