『文豪ノ怪談ジュニア・セレクション』

ゆっくりと愉しむつもりだった『文豪ノ怪談ジュニア・セレクション』全五巻、大急ぎで目を通さなければならない事情が持ち上がった。一通り註釈の感じを掴むつもりで開いたものの、結局全編どっぷりと浸る至福を味わうことになってしまった。
もちろん原文総ルビの意味と、見開きで1頁を超える、容赦のない詳註に目を見張りつつ、ジュニア相手とはいいながら、決して気を抜いていない東さんのアンソロジストとしての本領を堪能する。
まず『夢』では近代文学宗匠漱石のフルヴァージョンの『夢十夜』から、弟子筋芥川、谷崎へと進み「病蓐の幻想」でユーモラスだが執拗な夢の描写で谷崎の異様な世界へと誘う。チラッと考えたのはこの作品が小品ではあるが、ユイスマンスの『さかしま』の世界観を連想させるものがあるのに気がついた。この後の佐藤春夫のクウビンや芥川のボードレールと共に、三人とも海外文学耽美主義の深い薫陶を浴びていることからすると、あながち深読みとも思えない。
以下、東さんの註によって、更にもう一つの世界、ファーザー・リーディングへ足を延ばす愉しみもある。なにしろ夢野のエピソード「空中」に対するにシュオッブが持ち出されるのだから、じゃあ「硝子世界」ならシェーアバルト「ガラス建築」を持ってこようとか思う。さらにさらに八雲「夢を啖うもの」にはアメリカ映画『禁断の惑星』からイドの怪物を連れてくるという豪腕。
さきに容赦ないと書いたが、二巻目の『獣』でも中島敦山月記坂口安吾「閑山」の冒頭でも東さんの豪腕は続く。そこから梶井基次郎「交尾」怪獣の註では、すっ飛びまくる怪獣愛が発揮されて、いっそ痛快。
本来ならここで三巻目の『恋』なのだが、この巻は最後に回した。
『呪』では、綺堂、圓朝と語りの名人を並べ、八雲、柳田國男以降も語りものでまとめる構成を取っている。呪いの成就は、言葉によるものだからという事かもしれない。久生十蘭「予言」も言葉による呪縛を、当時の風俗や心理学の用語を鏤めた名文で読ませるもので、ここでも東さんの本気が感じられる。本気といえばつぎの小松左京「くだんのはは」で、太平洋戦争末期の神戸の少年の暮らしと、別天地のようなお屋敷での生活を丹念に描いた名作である。こう言った作品は、よっぽどのことがないとこの叢書の読者の目には触れないと思う。それを怪異譚とはいえ若い読者に突きつける心構えは、凄いことだと思う。全体に部外者である少年のまなざしで語られた経緯は、決しておどろおどろしいものではないだけに、この結末の壮絶さは言葉にならない。実は素天堂はほぼ半世紀前、高校時代にこの作品を初出誌で読んでいた。雑誌という媒体は、思いがけない出会いというものを味あわせてくれるものだが、正直これほどの衝撃をうけた記憶はなかった。この本の流れの中で、アンソロジイの一作として組み込まれるとその印象は数倍も濃くなるものだとおもう。
最後の巻『霊』だが、生者と死者の交情に重きをおかれた構成は、怖い話というより、優しい話でまとめられているのが好ましい印象を受ける。怪談というジャンルを構成するに際して、霊という存在との関わりでソフトランディングを計ったのではないだろうか。とくに室生犀星「後の日の童子」は、死児との優しい交流という、全体の中でも最高の印象を与えられた。そう言えば、素天堂の勝手な趣味なのだが、名随筆家チャールズ・ラム『エリア随筆』での最上の作品「幻のこどもたち」を思い浮かべたのもその優しい情景に酔った故かもしれない。
全体を構成するに際して編者もこんな風にいっぺんに集中的に読まれることなどを想定はされていないだろうから、残して置いた『恋』があまりにも強烈に嬉しかったので編者の意図とは少し違った印象になってしまったのだろう。

この巻は、「片腕」「押絵」「影の狩人」と刺激の強い作品が肩を並べており、特に「菊花の契り」については、素天堂の所謂中二病の元となった作品であった。しかし何故か未読であった「月ぞ悪魔」の異国情緒と魔術趣味には一発で伸されてしまった。それと既読ではあったが「押絵と旅する男」の見開き全ページを埋め尽くす勢いの註釈には圧倒されもしたが、うれしかった。なにしろたった五行の本文に含まれる語彙の註釈である。蜘蛛男、江川の玉乗り覗きからくり・・・。どうです。如何な「早稲田演劇博物館」がお膝元とはいえ、目もくらむような浅草風景ではないですか。それにしてもこのラインアップ、一つとしてストレートなラブロマンスが一件もないですなあ。いやあ、おじさんは全五巻を通して至福の時を久しぶりに過ごさせて頂きました。