オトナ・ノ・アソビ

それを覚えたのは、中学校も終わり頃だった。生物の先生に連れて行かれたある場所が、生涯の悪癖の始まりになってしまった。小学校の上級生の頃に背伸びして仲間入りしようとしていた大人の遊びを、初めて具体的に知ったのだった。そうか、大人だったらこんな事をしてもいいのか。憧れだったあの人をこんな風にしてもいいとは。驚きと感激でそれ以降のめり込む一方だった。
誰に教わることもなく、大先達、長沼弘毅の造り上げた『シャーロック・ホームズの世界文藝春秋新社 1962 を見つけ、深入りしていったのは、刺激的な論考もさることながら、まだ、俳優ともデザイナーともつかない奇妙な存在だった〈伊丹一三〉の描いた着色木版画風のヴィクトリア朝ロンドン風景が表紙の、洒落たタッチもあずかっていた。だから、苦労して探した、最初のシャーロッキアーナの著作であった『シャーロック・ホームズの知恵』朝日新聞社 1961 が、如何にも普通な幾何学模様の装幀だったのは残念だったのを覚えている。いつかは自分も、こんな遊びの仲間に入れたらとの想いは、その後持ち続けてはいたが、具体的な形をとることはなかった。
その後、雑誌『幻影城』1975が創刊され、新人賞に評論部門が設置されているのを知った時に、憧れであった〈シャーロッキアーナ〉の遊びを活用してみることにした。フィクションの世界を大まじめに取り上げる手法を使って造ってみたかったのが、小栗虫太郎の創造した、『黒死館』というまぼろしの世界でありながら強固な存在の実測図であった。勿論、建築を初めとする専門用語の大洪水は、当時も現在も、素天堂の手には余るものだったから、結局募集期限ギリギリででっち上げたのは、募集枚数に満たない不完全なものだった。とにかく一段落させて、応募をしてはみたものの、内容の不満足から、勿論、当落など意識になかった。
年が明けて自宅でくつろいでいた時、母親が「島崎さんていう人から」と電話を取り次いできた。心当たりもないまま電話口に出たお相手はなんと、あの『幻影城』島崎編集長なのであった。応募枚数にも満たない不十分な内容にも拘わらず、選外とはいえ選者の方々の印象もよかったとのお言葉に、穴があったら入りたい思いだった。忘れられないのはその応答の際「好きな作品は」と問われて「横溝正史の『びっくり箱殺人事件』」と答えて絶句されたことだった。結局その後、何回かの直接のご指導もあったけれど、素天堂の怠慢から満足した結果をお見せできなかったのが、心残りであった。
今回、K氏の協力を得て、『黒死館拾遺』の新刊をまとめ上げられたその時に島崎博さんの祝賀会のご案内を頂いたのは、何だか嬉しい偶然だった。残念ながらご一緒は出来ないことになってしまうが、ミステリ界での業績を評価されて凱旋帰国なさるとのこと、心からお喜びを申し上げたい。
それにしてもこの遊び、半世紀近くを経過しても新しい遊び方が登場して、実測図の完成どころか、素天堂を別世界に引き連れ続けているのだ。K氏の入力作業によって現在進行中の「黒死館古代時計室」にはいつまでも〈厭きる〉の語彙は登場することがない。