動かざる河船“箱船ラルシュ”号、河岸に繋がれたままの冒険

青い花レイモン・クノー 滝田文彦訳 筑摩書房 1969
自分を取り巻く現実に対して、あたかも動かない船にまとわりつくゴミを、竿でおし流す位の関与しかしていない一人の主人公と、自ら歴史の流れに敢然と立ち向かい大きな時間を思うさま立ちまわるもう一人の主人公。その二人を「夢」という行為で繋ぎ、歴史と時間、現実と夢、それらを交錯させつつ短絡させる、まるで小説における時間記述という常識をひっくり返すような波乱と静謐の混淆を、いつの間にか、不自然どころか何の違和感もなく読み通させてしまう超絶的構成の妙。さらに登場人物たちの魅力ある性格と行動、どこにいてもあるがままを受け入れるあっけらかん加減(その存在に対する矛盾は、彼らを取り巻く現実の方が引き受けざるを得ないのだが)は痛快でさえある。
特に中世から現代へと、文字通り歴史の転回点をスキップしながら、思考能力と発語能力を持った二頭の馬を引き連れて激流を下るような経験を重ねながら、恬然としている中世の領主とその一統。これは、クノーの歴史という概念に対する挑戦だろうか。それはもう現代における、もう一人の主人公の、秘密の多い生活と性格によって裏打ちされているのかもしれない。彼は何に対しても挑戦しないし、周囲ととけ込むこともない。話し相手はごく少数を除けば、いつでも通りすがりの誰かだったり、異邦人だったりする。
ここまで書いて、結局先が続かず、もう一度間をおかずに読み返してみた。もちろん、話の流れも、全体の構成も初読以上におもしろく感じられた。滅多にないことだが、そこここに鏤められた時間という流れの中での仕掛けと罠が、改めて感じられることになったのである。煩わしささえ感じさせられた、冒頭の、頻発する地口とそれに対する割り注の存在や、中世側の主人公の、露骨なストーリーへの介入など、大昔、読み進むことのできなかった理由はもしかするとそこにあったのかもしれない、それは実は大いなる魅力への入り口だったのである。さらに、二人の同等に見える主人公の関係の錯綜とか、要所要所に現れる歴史上の人物たちと主人公のあまりにも一方的な関係とか。とここで、ふと思いついたのだが、じつは歴史の急激な落流(とでも言ったらいいか)に飲み込まれたように700年を落下する、中世側の主人公は、実は意識的な時間旅行者だったのではないかと思いついた。現代側の主人公はその行き着く先における、文字通り水先案内人として、夢という照応の中で彼を待ち続けていたのではないだろうか。自分のテリトリをペンキで塗り替えつつ、いつも意識的に眠り、目を覚ませば目の前の通りを通る異邦人や通行人を“監視”していたのではないか。
だからこそ、領主とその一統の到着した1960年代のパリは「正しい落下点」だったのであり、誰もが、そこでの生活に違和感を持たない所以だったのかもしれない。たとえ、話のできる彼らの馬がエッフェル塔観光で悶着を起こそうと、それ自体は、大きな問題ではなかったのだ。時間旅行という目的を達成して、彼らの正しい到達点をクリアし、用意させていた彼の“箱船”をどう操れば、彼の見ていた“時間旅行”という大きな夢から覚めることができるのか、知っていたからこそ、あわても迷いもしなかったのだろう。
本当の持ち主が本当の目的でそれを使い始めたとき、現代の主人公は、与えられた報酬としてのすばらしい伴侶とともに、黙って彼の持ち場を離れていったのだ。領主の説得で彼の元に返る若い家政婦としての存在。唐突だが素天堂はビリー・ワイルダーの傑作「アパートの鍵貸します」のエンディング、二人の主人公の間で(永遠に)配り続けられるカードのシークェンスを連想する。このエピソードこそ、作者の女性に対する優しい視線を象徴しているのだと思う。
物語は終わったし、彼の夢は覚めて、封建領主としての彼のあるべき世界に戻ることもできた。今様ノアには、鳩のもたらしたオリーブの枝のように泥の中に咲く「青い花」が彼を迎えもする。しかし、良質の物語の特徴として、その「青い花」がなんだったのかを含めて、終わらない解決できない謎はいつまでも残るであろう。心に刺さるとげのように。そう、あれとかあれとかね。