ゴーロア風の笑いを極める イギリスもいいけどフランスもね ウゥジェヌ・ラビッシュ「人妻と麦藁帽子」「ペリション氏の旅行記」

これがラビッシュ

発端は、脱いで木にかけてあった(ここ重要!)婦人用の帽子だった。そこを結婚式に向かう主人公の乗った馬車が通りかかったとする。そしてその帽子が、馬の好きな麦藁でできていたら馬はどうするだろう。ということでこの作品は始まり、とんでもない方向に紆余曲折して読者をケムにまき、笑いに引きずり込んで、一体どうなるのかと思ったらいつの間にか終わっている。もう一冊は、功なり大成したと、自分では思っている馬車屋の親父が主人公。その親父の思い立った小旅行に、その娘に一目惚れした二人の若者が、無理矢理同行するところから話は始まり、親父の勘違いから最後には現役の軍人との決闘騒ぎにまで発展する、あれよあれよのドタバタ喜劇。読み終わって感じたのは前にも紹介した松原秀一「中世の説話」で読んだ、中世の人たちの巻き起こすおおらかな笑いだった。
しかし、ここに紹介されている二冊の戯曲は「ペリション」にしても「麦藁帽子」にしても、十九世紀の半ばに書かれていたとは思えないモダンな洗練の匂いがこめられていて、そこには、煩わしい人間関係の綾や、そこから派生する愛憎の葛藤もない。衣装と、装置さえ今風にしさえすれば、何処にでもいそうな(だけど、絶対存在しない)愛らしい登場人物が勘違いと行き違いのシチュエーションの中をいったり来たりするおかしさ。そこでは風俗や感情の流れというような、古びる要素が全く切り捨てられている。そうして、この作家の作品を読み終わった読者、ないしは、見終わった観客に残されるのは「おいしい食事のあとのおくびのような、何となく幸せなアトモスフェア」に包まれた満足感なのだ。この作品群には、確かに、人間性に対する鋭い風刺も、存在に対する悲しみの表現もないかも知れない、しかし、それは、訳者もいうとおり「すべてを断念すべきことを知った」「人間としての大人」にして、初めて醸し出すことのできるユーモアというご馳走なのである。
梅田晴夫大正九年(1920)生まれ、この本の出版当時は二十八、九歳だった。昭和二十三、四年といえば、戦後の混乱期の真っ盛り、その時期に立て続けにこの二冊を出版し、それぞれに長大な解説を書き上げるという、これだけの仕事をやり遂げた熱意は驚くべきものだ。しかしながら、明治中期からの、見誤って流入された自然主義からその末流としての私小説にいたる、陰鬱な底流とそれに反発するように起こったプロレタリア文学という、真面目ではあるがクソ面白くないもう一つの流れの影響からか、日本ではどうしても“笑い”や“ユーモア”というものが、ある一部の人のねばり強い“啓蒙”にもかかわらず、怒りや、泣きの感情より数段低く見られがちであって、例えば、コメディアンなども純粋に笑いを求めているうちはまだまだ軽く見られ、ちょっと泣きに色気を見せるようになると「あいつもペーソスがわかるようになった」などと、評価される。チャプリンの評価が日本で異常に高いのも中期以降の“泣き”の要素が大きい。実際には日本でだって、明治以前には狂言古典落語の大多数に、乾いたスラップスティックの匂いがないわけではないので、日本人が笑いに対して冷淡であるのだと思いたくはないけれども、前回取り上げた作家の名前を見て貰えばわかるとおり、ケストナー以外は、やっぱり多数派とはいえないだろう。
いつもいつも誰が読んでいるのかわからない本のことばかり感想を書いていることの多い素天堂だが、今回も、ああ、これは知っている、という人は相当演劇に興味をもっていた方かもしれない。しかし、実際ネット検索してみると、ウージェーヌ・ラビッシュという人は本国では没後(1888)一〇〇年を越す現在でも、現役で上演され続けている作家のひとりなのだ。この戯曲を日本に紹介した梅田晴夫という人も、風変わりな趣味人として、戦前でいえば太田黒元雄を彷彿とさせる。ジャンルこそ違え、自分の趣味を最優先させて、独立した価値観の元に自分の業績を展開できたある意味、幸せな作家のひとりなのかも知れない。現にこれだけの訳業を残しながら、文学的には殆ど評価されず、趣味の世界でのエンスージアストとしての業績ばかりが残されているのも、日本人離れした文学観への、裏返しの讃辞なのかもしれない。