怪説 恐怖の“Singing in the Rain”

何しろ、物心ついた頃には、ミュージカルといえば『ウェストサイド・ストーリー』という時代だったので〈今でもあの作品はミュージカルの鬼っ子だと思っている〉、五十年代までのハリウッドミュージカルはほとんど現物を見たことがなかった。だから陳腐なストーリーに、派手派手な振り付けのダンスと歌がからんだミュージカルなんて、つまらないものに違いないと思っていた。何しろ、TV放映の短縮版、CM込みで1時間半。刈り込まれるのはダンスと歌、残っているのは陳腐なラブストーリーだけ、なんていうものばかり見ていたのだから。
そんな素天堂が、この唄の存在を知ったのは、有楽町の大きい封切館だった。大看板には、ナイフを構えた異様なメイキャップの青年のアップが派手派手しかった、その映画は『時計じかけのオレンジ』。その前の『2001年宇宙の旅』の評判が悪く(今では考えられないかも知れないが)、この後の大作『バリー・リンドン』が大ゴケにこけたスタンリー・キューブリックの近未来ホラー、ウォルター・カーロスの電子音楽アレンジのベートーヴェンが荒れ狂い、暴力を食って生きているような主人公の青年が、その最中、喜々として口ずさむのがこれ『雨に唄えば』だった。当然だがすり込みというのが、人間にもあって、素天堂はこの曲がそういう行為のために作られた曲だと思い込んでしまったのである。だから、後日雨の日の八重洲の地下街を歩いているとき、BGMにこの曲が流れてきたときには、思わず周囲を見回してしまったほどだった。
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先入観とは恐ろしいもので、それが解消されたのは映画好きの友人から無理矢理誘われてみたMGMの回顧映画『ザッツ・エンターテンメント』だった。ハナからバカにしていた素天堂は、のっけから繰り広げられる物量に物言わせる演出と、名人芸に眼を瞠った。そのトリを飾ったのが、ジーン・ケリーのあの『雨に唄えば』の名シーンだった。こんな歌だったのか。目からウロコの素天堂だったのだが、その映画のフルバージョンに出会えたのは、さらに十数年を待たなければならなかった。感情の起伏、昂揚を歌と踊りで表現するミュージカルの演出の凄さは、このフルバージョンを見てやっと確認できたのだった。今は普通にミュージカル好きです。
ところで、『オレンジ』で、アレックス=マルコム・マクダウエルの唄ったあれなのだが、オーディションの時にキューブリックから「君がそらで歌える歌は」と聞かれたときに、彼が歌えるのはこの歌だけだったので。という落ちがついていたのであります。