魅力的な録音機〈しゅんくん〉 『雲を笑いとばして』今江祥智 理論社1991

うのちゃんとしのちゃん

 「読んでみやがれ!と言われたので読んでみました」第一回

わりあい意固地なところがあって、たいした下地もないくせに人に薦められた本に手を出すのは消極的だ。そんなところを絹太氏につっこまれてこんな企画をたてられてしまった。初回ということもあり、それほど手強い作品を選んでこなかったと見えて、素直にこの作品の世界に入り込むことが出来た。
舞台になった一九五〇年代は素天堂にとっても成長期だったから、ここに書かれた銭湯や自転車、先生の公務員住宅の狭溢な感じ〈内風呂もあるし、当時としては標準以下ではなかったはずだ〉、なにより、卵かけご飯に対するみんなの反響等々は、おもわず「そうだったんだよなあ」と読みながら呟いてしまうくらいだった。当時の音楽〈モンタンの『枯葉』、リサイタルのLP〉や映画〈『恐怖の報酬』、『エデンの東』、『ヘッド・ライト』そして『雨に唄えば』〉、文学〈ロマン・ロランルイ・アラゴンポール・エリュアールetc〉が意外なほど豊富に彼らの交流に絡まって登場するのは、戦後のある時期のちょっと高級な風俗史になっていました。それらに対して主人公があからさまに示す、当時一般的だった教養主義的な、音楽や文学〈への鑑賞態度〉には控えめだけどはっきりした揶揄さえ感じられる。先生や主人公のクラッシック音楽に対する、滑稽なまでに真摯な態度は、七〇年代に至って廃れてしまったあの重苦しい「音楽喫茶」での光景を思い出させるものがあった。
多分作者の分身らしい若干影の薄い主人公と、人はいいが、いかにも学者らしい風貌の恩師との交流が、恩師の家族も含めてユーモラスに淡々と心地よく描かれている。そこでは、家族たちの愛憎も、人の死さえ、柔らかに日常にとけ込んでいて、例えば、帯に書かれたこの作品の読みどころである〈初々しい二つのラブ・ストーリー〉さえも、ほとんど表に現れない既婚の大人同士の関係(それはしかしこの作品の大きな流れなのだが)は勿論、双子の姉妹の一人、魅力的な女子高生と主人公のまるで、えっ、これって恋愛?と思わせるほのかな関係も、暮らしの流れのなかで、哀楽に流されつつも緩やかに描かれる。しかしそこにかかれた人生というものが決して一筋縄の平坦なものではなく、文字通り命を張って作られているのだということは、温厚な先生の口からふいに飛び出す、戦時中における「ケームショ」や「特高の連中」という言葉から感じられる。緩やかに穏やかに暮らすためにはどれだけの苦闘が必要なのか、この作品はお説教でなく、感じさせてくれる。描写はわざと平坦だけれども、そうするための創作上の緊張が、全編をみなぎっていて読者を飽きさせることなく最後まで、〈じつは大事件満載なのだが〉主人公と、先生の家族の話を読ませる。
その工夫の一つが家族の中の最年少者俊くん(主人公との最初の出会いは三、四才だったろう)の存在で、彼の語りが作品の半分近くを占めているのだが、単調になりがちな、紋切り型に見えてしまいやすい、地のストーリーを裏から支えていく。彼のフィルターを通して、生き生きと読者に伝えてくれる性能のいい、魅力的な録音機、いやヴィデオ・カメラかもしれない、の役目を果たしてくれる。子供の前で見せる、大人の気の弛み、本音を覗かせてしまう裏の会話を、俊くんが表向きの平坦さを支える家族たちの緊張した関係を読者に見せてくれる構成になっているのだ。

すぐそばに、すてきななまみのにんげんもいるというのにィ 282p
わたしのことよくわかったってほめてあげたいけど、なあんだはないでしょ。なあんだしのちゃんですみませんでしたよォ……。310p

と言う主人公に対する少女の反応(このすね方がかわいい)とか

とうさんは、そんなぼくのことを、まるでいないみたいに、ハミングをうたにかえ、−ララランラン、ララ、ララランラン……。(略)よこめでみると、手にもったかさを、メロディにあわせて、スウイングしている。ぼくは、ゆめのなかにいるようなきもちになった。あのとうさんが、かさで、ちょうしをとりながら、こおどりしながら、あめのなかをこばしりにギャバンをおっかけてるだなんて……。395p

謹厳な学者のお父さんが飼い犬と俊くんの前でおもわず見せる、ちょっとぶきっちょな歓びのダンスは、この『雲を笑いとばして』の奇妙な題名の由来が、ミュージカル映画の大傑作『雨に唄えば』メインテーマの第二節、

I'm laughing at clouds / So dark up above
'Cause the sun's in my heart / And I'm ready for love

ジーン・ケリーがうたい踊るあのシーン。先生の心の中に生まれたあったかくて、気持ちのよい、何かのことだったのだと解らせてくれる。そうまさかと思われるが、この作品は、このお父さんと、〈自転車で、いきなりやってきて、みんなの前でひらりととび下りた、よく通る明るい声の〉女性との、素敵なラブ・ストーリーだったのでありました。