『球体の神話学』高橋睦郎 河出書房新社1991

sutendo2007-04-15

第三回 ズンドコ杯争奪 読んでみやがれ!感想文の会
ズンドコ杯、今回のお題もエッセイ。しかも〈神話学〉である。いわゆる、作者にしても、テーマにしても、読みそうで読んでない方の筆頭にはいる本をしっかり選んできているのは、敵ながら天晴れである。とりあえず、通読したが、筆者自身も言っている通り〈森羅万象〉に渉る博物誌的記述が、焦点を絞らせてくれなかった。
そこで、数十年ぶりに現代詩文庫の『高橋睦郎詩集』を開く。勿論これも絹太氏の蔵書である。そのみずみずしい言葉とイメージの洪水は、久し振りに詩人の世界を堪能させてくれたがこれは課題図書ではない。しかし、ゆっくり読み返しているうちに、その若き詩人の世界に籠められていた世界観こそ『球体の神話学』で取り上げられている、詩人の宇宙なのではないかと思い至った。

少年は樹です
頭部を切り落とすと/そこから 夜があふれる
樹液がしみ出すみたいに
空間は 彼の青ざめた顔で/いっぱいになります
恋人たちはその顔を通りぬける/まるで 森をぬけるみたいに 「夜」詩集15p

明暗に拘わらず執拗に繰り返される、首=球体のイメージこそ詩人の持ち、さらに〈神話学〉で敷衍されるアドニスたちの死と再生の象徴なのだろう。博物誌としての〈森羅万象〉が宇宙の別称であるならば、創世の〈神話学〉が宇宙起源論に進むのは当然なのだ。

人間が出発点である以上、結局のところ、すべての科学は人間の科学であり、神話は人話、占星術は占人術なのである。92p

そこから遡れば、プラトンの球体起源説、ヘルマフロディトスとしての人類起源、いわば同性愛者の論理的基盤へとたどりつくのは当然であって、男性シンボルの究極の球体=睾丸から柱状非球体の男根の博物誌へと話がつながるのも、そこは理の当然といえよう。

詩人にとって、物象は、世界は、風景は、恋人は、樹木は、小鳥は、風は、水は、詩人自身の死の、解放の、存在化のための、言葉の真の意味でエロチックな関係として、立ち現れるのだ。 
「知られざるPoésieをめぐって」詩集85p

初出誌は『王様手帖』パチンコ・ユーザー向けの業界誌。自分が知っていたのはA5縦1/4位の横長な変わった造りの本だったと思う。その本で4年に渉って連載されたこのエッセイが、どれだけパチンコ・ユーザーに受け入れられたかはわからないけれども、詩人は、あの喧噪と妙に血走った客の雰囲気のなかで、相対した「オール7機」に宇宙模型を幻視していたに違いない。そこに立ち並ぶ釘の林に黄道十二宮を視、その合間をつらなって時には互いに反発しながら、天から地へ、地から天へと盤面を動き回る、小さな鉄球の動きに天上の星たち=神々たちの動きを同定し、鉄球たちが吸い込まれ続ける回収口にブラックホールを見ていた。のであろう。この詩人にとっての宇宙は、パチンコ台によって啓示を受け、その錬金術的世界観の中で、ヘルマン・ヘッセの究極の形而上学『ガラス球遊戯(演戯)』にならった「パチンコ球遊戯」によって閉じられるのである。
本来であれば、埋め尽くされるはずの多くの図版を切り捨ててでき上がったこの書冊に、選びに選び抜かれた数葉の挿画。作者の世界観をあらわすその中にえらばれた「凸面鏡の自画像」パルミジャニーノ。この作品はデューラーの「メランコリアⅠ」とともにこのエッセイをあらわしている肝ではないだろうか。このりりしくも自分自身が世界のすべてであるような奇妙な自負心こそ、彼の見るゆめの少年気質なのだ。

最後にこの本の装丁者であり、挿画を選んだ版画家北川健次サイトを紹介しておきたい。