至福の時 趣向の宇宙 再説/幻想美術館

会場へ入った途端、目に入ったのがマン・レイによる「空想的サドの肖像」だったので、脇目もふらずにそっちに引き寄せられてしまった。そこに並ぶ、コクトーの写真とかハンス・ベルメールの危険なエッチング類にカウンターを食らう。一瞬の眩暈から立ち直って、気を取り直すと、ブースを一つとばしていたことに気づく。泡を食って後戻りして、武井武雄の美しい原画や初山滋の幻のアリス原画にウットリ。また、マン・レイベルメールに戻って、初期の著作と加納光於作品をはじめとする交友関係とかを見て通り抜ける。全体に出品点数の多さを補うために普段は使用しないスクリーンの多用が目立ち、結果的に澁澤世界の迷宮性を象徴するかのように見えた。その迷宮性は彼の思考が理論ではなく、あくまでも自らの趣味、趣向で成り立つものだったからではないだろうか。とはいえ、彼自身が好んで使用した〈宇宙〉という言葉に表れているように、そこに組み上げられた彼の世界は、王として全く他者の介入を許すことのなかった堅固なものだった。
もっとも初期に属する翻訳「戀の駆引」の装幀も、当時としては珍しいビアズリイをあしらったカヴァー装で、口絵に先の「マン・レイによるサドの肖像」のモノクロ画を、マン・レイのマの字も知られていなかったあの頃に、先駆けて使っていたように、澁澤はそれらの作品群にたいして、正鵠を射た批評眼を持っていたのである。
おもうさま、自分の持つ資質にこだわり続けることで、のちに数多のフォロワーを生み出したにしても、これだけの作品が国内における所蔵品でまかなえるというのは、素天堂のようなオールドタイマーには驚異的なことで、結果的に澁澤の影響が後続の美術研究に対して、如何に大きな力を持っていたのかを伺わせる。アカデミズムに食い込むより、個人の資質に影響を与えているのは、展示物の個人蔵が多いことでも了解できよう。また、絵画作品等でも、新設の美術館等での所蔵品が目立つのも、後続の美術研究者にあたえた影響もさることながら、評価の定まった既存の画家作品よりも、いわばニッチ的な作品構成をとるようになった美術関係者への影響等もゆるがせにできない。
とはいえ、後続者のならいとして、どれだけ広げようとも、どれだけ掘り下げようとも、我々は造物主としての彼の掌という、その生涯を賭して組み上げた〈シブサハ宇宙〉を超えることはなく、そして彼、澁澤龍彦は、現在座ますもう一つの世界で、やっぱり、自分の宇宙を組み立てているのだろうなと思わざるをえない。そうじゃありませんか?