できぬことならやらぬがよい

この数週間、あの類人猿俳優の怪演にもかかわらずミステリー・チャンネルでの『岩窟王 モンテクリスト伯爵』を楽しみにしていていたのは、悲しみに打ちひしがれるマクシミリアンの前に、最後の最後に現れる再生された「ファラオン号」のマルセイユの港に入る姿だったはずだ。驚喜するマクシミリアンの前で船から下りて、用意した快速船で沖へと消えるエデ(アイデ)とエドモンの姿だったはずだ。断じて恋人の前でやに下がって料理をつくる伯爵や、どこぞの海岸で抱き合う毛むくじゃらな半裸の老優などではなかった。
最大の敵、ヴィルフォールの家に連れ子がいないのも、狂気の果てに埋めたわが子を捜して、深夜の裏庭を掘り返すシーンがないのも許そう。ブゾーニ神父とウィルモア卿の噴飯ものの仮装だって、役者が役者だからと許してもいい。地下の実験室で失神した蛙を振り回すのだって、お洒落なギャグだと思ってあげるさ。とにかく、この無惨な結末の改竄は、半世紀に渉って「モンテクリスト伯爵」を心に抱きつづけてきた愛好者の心を踏みにじるものだ。メルセデスの手を持って海岸を走るエドモン・ダンテス! 
獣人雪男南仏の海岸に出現の図!!!
そのうえ、雪男に拉致され、海中に引き込まれる美女って……。
限られた上映回数によるストーリーの改変だというなら、回数を増やせばよかろう。ひたすら突き進む伯爵に対する、ベネデットの人物像をはじめとする、コンパクトにまとめられた見事な作劇術と、原作の根底に流れる虚無故の諦観を、生ぬるい最終回で踏みにじるのだったら、いっそつくられなければよかったのだ。