大正時代の抄訳本 

ヨーロッパをさすらう異形の物語〈上〉―中世の幻想・神話・伝説

ヨーロッパをさすらう異形の物語〈上〉―中世の幻想・神話・伝説

今回の作業の一貫で、最近刊行されたこの本を読んでいたら、何だかデジャブ感覚に襲われた。勿論今回の作業の参考にはなったのだが、どうも、いつか読んだような気がしてならなかった。で帰宅して、早速、てんやわんやの書棚をかきまわしてみた。でてきたのが、これ。
「中世の欧州に現はれたる神秘伝説」
文學士長谷川慶三郎著 東京暸文堂蔵版 大正六年刊 である。
扉での献辞が「謹みて本書を故文學博士上田敏先生に獻ず」。
書名は原題が『Curious Myths of the Middle Ages」であるから、こちらの方が、原題に近い。第一章は、いわば訳者オリジナルの欧州神話伝説に関する総論で、以降タンホイゼル(ヴィーナスの山)、メルジナ(メリュジーヌ)、ウイルヘルム・テル(ウィリアム・テル)と続く、さらにハメルンの笛吹者(ハーメルンの笛吹き男)、僧ハットー(ハットー司教)と内容は「ヨーロッパをさすらう異形の物語 上―中世の幻想・神話・伝説」のままである。これだけの大著を大正初期に全訳に近い形で紹介した訳者の努力は大変なものだったと思う。ただ上下巻逢わせて二十四話の原本から、八章を削り、更に大きく配置を変えたうえでの十六章の抄訳となったのは、今、原著を知る事になった我々からすれば残念だけれど、「メルジナ」の章には関連する日本神話や伝説を追加されたりしているのが、訳者の良心なのかもしれない。
またこの書で取り上げられた多数の引用元については、序文の末尾近くに

引用書は、本文に載せて置いたから、重複を避けここに掲げないが、本書を読む際に読者は、地名、人名、年代字書を座右に置かれて参考せば、本文の述ぶるところに連関して更に種々の興味を喚起する事と信ずる。

と書かれてあるのだが、勿論、それらは原著者バリング・グールドのものなのである。まあ、続いての言葉は著者の偽らざる心境だと思っても間違いではないだろう。強いて言えば、要所要所の単語に原綴が置かれてあるので、検索しやすい点がこの書の長所かもしれない。
思えば、小著だが広範な「民俗学の話」(こちらは戦後角川文庫に収録もされたが)にしても、この書にしても、遠く大正期に紹介されながら、その後、ほとんど忘却されていたのは、本当に残念な事だった。その空隙を埋める形で、全訳が読める自分たちは幸福である。