わが身を切り裂く二つのM

所謂十代後半。誰でもその頃には、妙な虫がつく。欲してもいない自分の、醜い変貌に嫌悪し、自らの意志とは関係なく湧き上がる、不条理な衝動に手が動く。その忌々しい衝動をノートに書き散らした戯れ文でも、紛いの行分けさえあればそれが自らの詩心の現れだと勘違いする虫だ。褪せてありふれた書き割りの世界と、色紙張りの張りぼて宇宙への惑溺。
もう一つ彼が没入していったのが、自分のいるこの日常の現実は実は、自分のいるべき世界ではないとのめり込んでいった物語世界であった。あんまり当たり前に十代の人格の考えることなので、こうやって、ことさらに言うのさえ恥ずかしいのだが。
その物語世界の象徴がアレクサンドル・デュマの『モンテ・クリスト伯爵(厳窟王)』であった。浅ましい他人の欲望と嫉妬から、生きて地獄に突き落とされた人間の絶望と、世界に対する復讐劇は、そのスマートな展開と共に、孤高の存在である白面の貴族〈モンテ・クリスト伯爵〉が、何時でも社会とは一切関係なく、自分の世界でだけ生きる様に憧れていた。すでに体制という欺瞞に絶望して、それに対する反体制という存在すらも、実は翻ってもう一つの自分を縛る体制に過ぎないことを知ってしまっていた彼にとっては、あるべき世界そのものだったのである。
詩というものに対する、かれの勘違いを崩して入りこんで来たのが、高校に入って知ったコクトーの『阿片』と、ロートレアモンの『マルドロールの歌』だった。
体の中から湧き出る、麻薬禁断症状の虫たちのうごめきを、言葉と絵で表したコクトーの『阿片』は、彼に詩と絵の融合を教えた。ほとばしり出る呪詛の大洪水を、美しい言葉の組み合わせで正確に表現した『マルドロールの歌』の栗田勇の訳は、醜いものであっても、美しく表現できるかも知れないという錯覚を、当時の彼に持たせてしまった。どちらのことも今思えば、選ばれた人間の、文字通り血と知の葛藤あってのもののはずなのに。
自分の、貧しくもおぞましい心象風景の書き散らしに限界を知らされてきた頃、忽然と〈自分の中に〉現れたのが〈花村清枝〉と言う存在だった。もしや、自分の中に自分の知らないもう一つの自分がいやしまいか。などと考えるのは冷静に思えば、単なる逃避でしかないのだが、そう考えることによって世界が、貧しいなりに広がって見えてきたのも、当時の彼にとっては、やはり真実であった。彼女が語ってくれる世界は、紛いかも知れないが、何時でも、もう一つの魅力的な世界への誘いではあった。夢中になって彼女の世界を見てきたものの、彼女の消滅と同時に結局残されたものは、未完成なカードの城にしか過ぎないものであることに、熱から冷めて気がついたのである。
自分の中でやってみたい作業が見えてきて、造りあげた虚構の最初の作品は、いなくなった彼女に渡しはした。いわば、それが訣別であった。そこから、素天堂の世界が始まった。
もうそこには『マルドロール』はいない。ましてや作業服のポケットに文庫本を隠し、トイレに入っては続きを読み耽った『モンテ・クリスト伯爵』にのめり込んだ十代の彼はもういなかった。