えっ、あの橋が! 素天堂因縁のお岩様

sutendo2008-11-09

月に一度の通院でのお楽しみと言えば、待合室で普段は読まない雑誌を拾い読み。今回は三年に一度の大祭だった、深川八幡の大特集「散歩の達人」だ。いったこともない地元の〈名店〉の紹介と一緒に、街の歴史が紹介されている。今日は結構診察が混んでいて、いままで、読めなかった先まで読むことが出来た。いくつかの興味深い地元史ににんまりしていると、永井荷風の『日和下駄』がらみで、大正時代における近傍の紹介である。そこにある大正時代の地図を見れば、当時のここら辺が如何に田舎だったかがよく分かるし、現在の道の判りづらさの根元が、そんな当時の施設配置からも窺える。ガスタンク、セメント会社、いまではマンションや学校の配置されているその場所の来歴がよく分かったのだが、一番驚いたのがこれ。隠亡堀
歌舞伎はともかく、映画ではお馴染みだった「四谷怪談」の重要な一シーン。お岩と小仏小平の戸板返しのあのシーンの舞台なのだそうである。しかも隠亡堀あとだというあの橋は、入稿〆切ギリギリで半泣きになりながら、発送で駆け込む当地のネコ運輸支店の真裏のあたりなのだ。この辺は、隅田川を挟んだいわば川向こう。向島、深川はともかく四つ目通りを過ぎれば、ついこの間まで倉庫、工場立ち並ぶ場末だったのだが、荷風を読んだりすると、実際はもっと田舎だったらしい。尤も浅草や、本郷だってすぐ裏は畑や田圃だったのだから、このあたりが田舎なのは当たり前だったのだろう。南砂に海水浴場があったとビックリしても、月島にだってあって、銀座あたりの不良少女の根城になっていたそうだから、素天堂が思う程田舎でなかったのかも知れない。
それにしても、大昔、「美学校」が四谷にあった時代、そこには於岩稲荷田宮神社があり、つい最近中央区に転居した時も近所にお岩稲荷があった。そこに持ってきて隠亡堀か。確かにファンではあるが、よっぽど、お岩様に縁があるようだ。そうだ、そういえば、新川から現在の勤務に通勤していた道の脇にも、阿漕な商売をする直助権兵衛の隠れ家で、お岩さんの着物を浸けた洗濯盥から、アレが出るシーンの舞台になった、深川三角屋敷あとがあったそうだ。もう、おなか一杯。今日の一枚は、大好きな北斎のユーモア怪談シリーズ『百物語』から。