桑畑の夕陽

どっちみち知っている人は知っていることだが、素天堂の名前は、雄也である。
読みはカツヤである。その命名の件で、ごく一部で本人を差し置いて盛り上がったりしているのだが、それを見た古い友人の東洋医学の権威から、それ以上に豊富な日本史の学識を披瀝されたりしている。それによると、時期の人、火事装束に陣太鼓のあの人まで、ヨシオでなくヨキカツでないかという説まであるそうだ。
ここによると、「三介殿(信雄)のなさる事よ」とか、「暗愚の将」とか散々なのだが、実はそれをジックリ見て驚いた。何と両親の出身地、群馬の一地方の領主だったのである。甘楽郡とか小幡とか懐かしい地名が散見する中に、〈養蚕の育成〉という言葉が出てきた。

それを見た瞬間、幼児期に祖母と連れだって歩いた、延々と続く桑畑の道を思いだした。
祖母のやっていた生業は、卵の行商だった。といっても卵を売り歩くわけではない。今の経済構造では理解しにくいかも知れないが、朝仕入れた乾物を、養鶏農家で当日生んだ卵と物々交換して、家の前にあった大きな乾物屋さんに引き取って貰う、そんな商売だったのである。今のように十個パック××円というような時代ではなかった、高級品だったから出来た仕事なのだろう。それは、夏の暑い日、朝、仕入れた乾物を背負って、周辺各所に散在するお得意を巡って歩く、気の遠くなるような仕事だった。
年に数日の田舎暮らしは、幼い自分にとっては、何より楽しみだった。
祖母が、お得意の農家の縁先で、世間話でもして一服している間、庭先の外後架の前を虫をつついて歩く雌鶏のあとを追ったり、広い屋根裏の〈お蚕屋〉で見せてもらった、雨音のように響く、桑の葉に食い付く蚕たちの旺盛な食欲に驚いたりしていたことは、随分楽しかったのを覚えている。
それでも、連れだって歩く距離の遠さに我慢ならず、むずかりつつ「男の子だから泣かないよ」といっていたとは、後年老いた祖母から聞かされた、恥ずかしい言葉だった。子供にとっては永遠に続くかのような、桑畑に挟まれた土埃の道に照る夕焼けが、自分に付いた名前の現していた光景だったのだ。

使用した写真二点は,
信沢あつし様のペ−ジからお借りしました。ありがとうございます。