美しい町? 『棒がいっぽん』高野文子から

自分が小学校から義務教育の時期一杯生活していたのが、某鉄鋼メーカーの社員用の集合住宅、所謂、社宅だった。五十年代後半から六十年代初期の、高度成長期以前のことだ。首都圏とはいえ駅前の小さな暗い商店街と、いくつかの旧軍需工場から転用された工場がある他は周辺の多くは農地だった。
高野文子の作品が、擬アメリカ・タッチの『ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事』のあとは、少女マンガとしては発売されなくなってしまった。十年以上経ってやっと単行本化された、最後の少女マンガ作品集『棒がいっぽん』の冒頭「美しい町」の舞台は、それに似てはいるが、多分それより少し後の地方都市が舞台だろう。地味な設定と大人の世界の嫌らしさを、淡々と書いたこの作品がどれだけ読者を悩ませただろうか。それ以後、二作品を残して、高野は少女マンガからは離れていった。最初から少女マンガの本筋から離れようとしていたのかは定かでないにしても、彼女の創作姿勢が結果的には、少女マンガという小さなジャンルに、収まらなくなっていったのは必然かも知れない。
この作家に対してあまり興味を示さなかったK氏が、『黄色い本』という近作に巡り会って、その世界に共感できたらしく、あとからどこかで綺譚社版の『おともだち』を見つけてきたりしていた。年も押し詰まったこの間開業した、地元のチェーン系古書展のセールで、彼女の大買いしたなかにこの作品が入っていて、今日、暮れの作業が終わって読み出したらしい。その印象が「怖い!」だった。
言われても、すでに読み終わって十年以上たった個々の作品まで、覚えているはずもなく、ウロウロしているうちに、K氏は疲れから寝てしまったので、久しぶりに読み返してみた。最初の感想は上でも言った通り、見合いで所帯を持った二人の、社宅暮らしが描かれている(とはいえ、休日の散歩と、丘の上から見る自分たちの町の鳥瞰は素晴らしく、高野の真骨頂だ)、佳作、くらいにしか思えなかった。しかし、もう一度、読み返してみるとそこで描かれている、社宅暮らしの底意地の悪さが、やっと見えてきた。隣家の旦那の、主人公たちに対する、羨望と、主人公に対する欲望が、小さいけれども間違いなく、彼らを貶めているのが見えてきたのである。
少女マンガであるという先入観と、摩滅した感性では、そんな悪意の表情を見過ごしてしまうのだ。そうだった、あの「田辺のつる」も「早道節用守」も、いつもその作品には、底知れないヒトの悪意が秘められていたのを思いだした。
集会という名の寄り合いの煩わしさ、他人への監視、好意や住みやすさばかりではなかった、社宅での暮らしを今ちょっと思い返している。