幻の島で語られるもの

 幻島ロマンス ゾナ・ゲール/野口米次郎 世界大衆文學全集32 改造社1929

Romance Island 1906 Gale, Zona, 1874-1938 THE BOBBS-MERRILL COMPANY INDIANAPOLIS
実は、今回この作品を読むまで、ずっと表題を『氷島ロマンス』だと思い込んでいた。読みもしないで手元に置くという悪癖は、その本の表題さえも間違えて記憶させていた。多分ヴィクトル・ユゴーの『氷島奇談』と混同していたのだと思う。ところがいくら読んでも氷山は出てこないし、どうも舞台になる島は南洋のどこからしい。というところで扉を見返し〈氷の島〉ではなくて〈幻の島〉であることに、数十年経って気がついた。

発端の奇妙な襲撃事件と、その島での〈王の失踪〉、貧民窟にひそむ正体不明の貴族、これはもしや、『ゼンダ城の虜』になるのだろうか、と思った。それらしい奇妙なイメージは連続して登場するのだが、いっこうにサスペンスは盛り上がらない。代わりに、〈第四次元〉とか〈不可能を可能に〉とかどっちかというと、十九世紀浪漫派っぽい、幻想と、二十世紀に勃興する科学小説的なイメージが、この作品を覆っているのに気づかされる。あくまでも、事件の謎は作者のいう〈ロマンス〉に奉仕するのみで、波乱によるストーリー構成はほとんどない。その島へ向かう航路や、見えているのに近づきにくい険しい街への道筋自体、神秘体験におけるイニシエーションそのままであり、地図にない幻の島とは、古代、中世と受け継がれてきた、人の愛、恋を具現する〈恋の世界は神秘の世界〉なのだった。そこは、古代の叡智と近代科学の精髄を凝らした、美しくても〈どこにもありえない〉ユートピアなのである。

訳者(共作者?)の野口米次郎は、作者の序文にもある通り執筆当時の恋人であり、そこここに、当時を回顧する訳者自身の言葉を書き加えている。中世の叙事詩でいえば、お城の中の姫であるヒロインを巡る、遍歴の騎士と、城での庇護者としての二人の主人公に、野口自身の過去と現在を投影しているのだ。

恋の勝利者としての遍歴の騎士との対決に破れ、自ら毒杯を仰いで、老いてゆく伯爵の最後の言葉「時と青春は懐かしい、然しそれもすべての秘密よりもっと大切な秘密を持つを持つ人間にのみ必要だ。今やわたしに時の懐かしさも青春の尊さもない。諸君お去らば!」は、どうも原作にはないようで、なんだかファウスト中の名言「時よ止まれ。おまえは美しい」を彷彿とさせる、彼自身の現在での述懐なのであろう。
冒頭に掲げた写真の通り、美しかったゾナ・ゲール自身についてはすでにプヒプヒさんの日記でもすでに取り上げられており、彼女の出身地ウィスコンシン州にも、伝記は残されている。
森鴎外の昔から、帰国文士の恋愛沙汰や、帰国後の反動的言辞は数多い。ヨネ・ノグチも、戦中は愛国的言動が甚だしく戦後は忘れ去られてしまったが、例えば、獅子文六がいたように、ながらえれば、その罪は雪がれていたかもしれないとおもう。そんなことを考えると、彼の黄金時代であったニューヨークでの甘い日々は、終生忘れられない幻だったのだろう。