黙祷

いつでも人は死んでいるし、見えないところで人が少しずつ消えていくのは当たり前のことだ。
多少の縁があったとしても、多い時で年一回、甚だしくは六年以上音信がなければ、他人に等しいはずだ。だから、知らないところでいつの間にか亡くなられた方がいたとして、その手帖に名前さえ挙げられていないことだってあるだろう。その人が、自分にとってどれだけ重要でかけがえがなかったとしても、ご遺族にとっては何の関わりもあろう筈がない。ましてあの当時、環境の激変でこちらは転居を繰り返していたのだから、もし連絡の意思がおありだったとしてもそれさえも不可能だったであろう。
たった年一度の訪問でさえ、広い旧家の南面した一室に通され、家族の方とほとんど面識さえないままできた。唯一面識のある奥様以外の方からすれば、その無視は当然のことだ。伺えば、午後一時から、八時九時まで喋り続けたあの日は素天堂とあの方だけの世界であった。好きなことだけをして人生を過ごしてきた自分だったが、それをやさしく、困ったような顔で、でも楽しそうに笑って、その年の報告を聞き続けてくれていたあの先生が、夢の中に出てきた瞬間、この世から去っていってしまった。それにしても、この世でたった一人、先生と呼べた方が五年前に亡くなっていたとは。

好き放題、言いたい放題を過ごしながら、その方のお加減さえうかがわずに来た、趣味だけを、好みだけを追い続け、聞いて下さった方に、転居通知も出さず、何の社会的な縁も結ばずに来た、これがその報いなのだ。やりたいこと、やらなければならないことが、数十年かかってやっとかたちの見えてきた愚図なのだから、五年も遅れて、コッソリ、その方を追悼することしか、今の素天堂には許されていないのは当然だろう。