〈Out of Time〉時間旅行者の孤独

良い古本屋さんが思いがけない本をリストに忍ばせたのを見つけたりすることがある。そんな時、この本屋さんはもしかするとお店の番台の奥に、小さなタイムマシンを常備していて、夜な夜なだか、週一だかにその時代にいってその本をこっそりこっちの世界に持ってきているのじゃないかと、思ったりしませんか。
そうやって考えてみると、今、自分の部屋の大部分は、十年単位で現在から遡っていくための装置だと思って良いかもしれない。2000年の自分、1990年の自分・・・そして、1950年、1949年の自分。いやそれよりずっと先までがこの部屋に積み重なっているのだと思う。

そんなことを考えたのは、先日、川崎市民ミュージアムで『粟津潔展』を見た帰り、K氏の発案で市のちょっと西にある溝の口に行ってきたせいなのである。住吉駅から都営新宿線、神保町で乗り換えればバス乗り場のある、武蔵小杉駅まで直接乗り入れている。情報では知っていても実際に使ったのは初めてだった。様変わりした武蔵小杉の駅を戸惑いながら北口へ抜ける素天堂は、さらに待っている時の落差をまだ予感さえしていなかった。

粟津のグラフィックを中心とした回顧展も、初期の油彩画の展示もあって、面白かったが、その会場が魅力的で、まるで、宮崎アニメの原風景のような廻転型の溶鉱炉が設置された街の象徴として置かれていたりする。さらに常設では最近の写真家や漫画家の作品のたちの展示が水準も高く、何故もっと早くここへ来なかったかが惜しまれるようだった。何となく親密な感じのミュージアム・ショップで小物を物色して、会場の外に出る。さっき乗ってここまで来たバスが、溝の口行きであることを思いついたK氏が、溝の口行きを提案してくれた。幸いバスの時間はほとんど待たずにすむ。バス停にはもう人が待っていたが、ここから乗る人は少ないようだ。あまり混んでいない車内で席を選んで乗り込む。
はしり始めた最初こそあまり縁のない地区だったが、そのうちに、素天堂が高校時代にバイトをしていた、日本最大の運送会社が。思わず口ずさむその支店の電話番号に、なぜかK氏大受け。そこからは北見方地区に入り、友人たちとの夜の散歩コースだったの弁にK氏またビックリ。そうだよなあ、あの頃はファミレスもなく、深夜営業のコンビニもないのだから、話したかったら、夜の街を徘徊するしかなかったのだ。あの路地、この会社と喋っているうちに高津地区の中心部田園都市線高津駅の高架を抜ける。この裏が、中学時代学校をさぼっては行っていた、あの図書館のあとなのだ。警察、消防を通り過ぎたところで、左折するが、その道の細さに驚くK氏、これが、虫太郎いうところの大山道なのである。ここから、まっすぐいって南武線の踏切を超えると〈ネモジリ坂〉だ。しばらく行くと久地の円筒分水まで続く、二ヶ領用水の堀を超える。

両側に植えられた枝垂れ桜が目に付いたK氏、ここで降りてみたいと言ってくれた。もう一回左に曲がったところが〈溝の口〉バス停。ここが溝の口の中心部なのだ。だいぶ再開発が進んだとはいえ、街中を不規則に巡っている用水路が、ほとんどは暗渠になっているとはいっても、道筋は元のままのようだ。複雑に入り組む街をうろつきながら入った喫茶店は今でも残る高津中央病院のすぐ脇だった。店を出てほんのちょっと歩いたところで、右に曲がる。自分は、旧「溝の口百貨店」の脇を抜けて線路沿いへ出るつもりだったのだが、いつの間にか住居表示が〈久本〉に変わっている。しかも大規模マンション群である。一体自分はどこを歩いているのであろうか。ただ少なくとも、このままいけば線路沿いの道に出るのは、多分、間違いない、と思いたい素天堂であった。
そう、それでよかったのである。まだあったG.S.が、とっくに踏切を超えて歩いていることを気づかせてくれたのである。ここを曲がればそこは素天堂曽遊の地、いや曽学の地であった。まずはT高校。道路沿いに大きな「定時制生徒募集」の看板は、今でもどころか当時より大きくなって健在だった。工事のために校門が開放されていたので、ちょっと失礼して、図書室脇で一枚。

そのすぐ脇が、H本小学校、玄関を覗くと、校舎がない! そうだった、二十数年ぶりの同窓会も、この木造校舎取り壊しの際のイヴェントだったし、五十周年の時にも自分は出席できなかったが、同窓会があったはずだ。ただ、旧玄関を飾っていた植え込みと、小さな池は今も残っていて、やっぱり今の児童たちの遊び場になっていた。

自分たちが入学した頃にはまだ、学校がなく(当地の陸軍兵舎だった中学校に間借りした分校と、3年生の前半は本校まで通った。校舎ができて実際に入学したのは三年生だった)、素天堂たちが住んでいた社宅の敷地と戦前からあったT高校の間の田圃を埋め立てて学校用地にしたのは覚えている。その頃運び込まれる残土の中に未開封の薬剤入りアンプルが入っていて、訳も分からず「ヒロポンヒロポン」といっていたっけ。今考えると背筋が寒くなるが。そのために、敷地が広く県道沿いのフェンスが長く、今では思いもつかないけれど自分たちの社宅の住民は、校内を通って裏口から社宅の敷地に入っていたものである。

土曜休みで公開されているグランドに入らず、わざと、塀沿いを旧社宅に向かう。今でもその当時母親たちのパート職場であったいろいろな企業が健在だったのは意外でもあり、嬉しかった。社宅の隣、新城側にあった池貝鉄工所は、早くにこの場所を手放しその跡地がKSP(かながわサイエンスパーク)になっている。線路の向かい側が「八欧電気」の工場だった自分たちの社宅は、製鉄不況の中六十年代早々に会社が手放し、近隣の某大手電気メーカーが、買い取って倉庫のようなかたちで使っていたのだが、今は、高層マンションに変わっていた。時代は変わって、再び用途が戻ったということか。あの高層アパートなら、九棟百世帯を超えたあの社宅の人工はすっぽり収まってしまうかもしれない。それにしても、今日スペースで遊ぶ子供たちの「××ちゃん、死んでるんだよ」の連呼にはちょっとビックリした。いや単に鬼ごっこだったんですけどね。

まあ、それほどの感慨もなく社宅趾をあとにして方向を変えたら、すぐ目の前がT中学校、確かにグランドを含む敷地は変わっていないけれど、校舎の位置がすっかり変わって線路側に近づいていた。例の〈入学時書類不備〉事件を面白がるK氏は、今でも高校と中学校の敷地が繋がっているか確認しようと、周辺のお宅の窓際をドブ板沿いに入っていった。うーん、体育用のネットやフェンスは見えるが、恒設的な境界はないように見えた。中学校の敷地を回る時、表通りに一回出るのは昔のままだが、その一角に、エビスベーカリーの文字が。唯一中学校在学中のお店が今も存在していたのだ。それは今回、唯一のなごみであった。
学校や周辺を歩いて見て、道が、思っていた程狭くないのが不審だったが、そうか、ほとんどが暗渠化して、道が広くなっていたのだ。だから、道脇に溝のなかった線路脇の市道が、いま歩くと狭く感じられたのだろう。ここから、坂戸や、北見方の方へ回っても良いのだがそれではあまりに強行軍である。思ったより、当時の小学生の活動範囲は広かったのだ。
ここから、旧日本電気の社宅や、旧東芝電気の社宅のあたりを駅の方に戻ると、さっきの戸惑いが解消した、あの大規模マンション群は、その東芝社宅の跡地だったのだ。やっぱり大人の足だから、思ったより奥に入っていたのである。ならばこの道を行けば、南武線の踏切と八百鉄の前にでる。小学校時代、踏切版のおじさんと仲良くなって学校が終わってから、番小屋に入れて貰い、貨物の入れ替えを見せてもらったのを思い出す。駅正面は様変わりしているからと、踏切を渡る。様変わりはこちらも御同様だった。子母口方面の市道が拡幅され、当時記憶にあった建物がほとんど撤去されている。小学校の校医さんだった岡医院のお屋敷も敷地を削られ、表門と蔵を残して公園になっていた。そのせいかもしれないが、記憶にあった久本神社が見つからず、K氏に偉い難儀をさせてしまったが、素天堂的には面白かったのである。それにしても駅裏の様変わりと変えられない地形、地誌。これが溝の口なのだろうか。昔書いた、「芦刈の在考」で、そのモデルをこの近辺に設定したのは今でも変わらないが、その眺望を再現するには、是非次の機会に、ネモジリ坂を登ってみたい。
さて潮時と駅方面に向かうが、駅の改造で裏にあった小さな踏切は撤去されている。この路地でよく露天の本屋で月遅れの雑誌や付録を乏しい小遣いで買ったりしていたのだが。エレヴェーターで南武線の改札階へ上がり、東急線の方を目指す。そこを通り過ぎて、あるかもしれない昔の面影を探しに行く。やっぱり、ない。
流石に、東急線の高架化と駅前ペデストリアンデッキの完成で、あの「ヤストモ・ストア」の店のならびや、東急線沿いのドブ板に並んだ昔の闇市がそのまま残った〈溝の口〉の駅前はなくなっていたが、最後に通った東急溝の口駅裏に僅かに昔の匂いがあった。そこに残る書店「昭文堂」は、今話題のマガジン、サンデー創刊の時、この本屋に見に来たのである。それに何より一軒古本屋もあった。なかなか面白い品揃え、例によって名前は見てきませんでした。
流石に疲れたK氏の願いで、田園都市線の高架脇、バス通り沿いの焼き鳥のお店「ぼんじり」へ入った。当てずっぽうで入ったお店だったが大当たり。名前のとおり〈ぼんじり〉もおいしかったが、つくねに仰天!こればっかりはお店で確かめて貰わなければ。何しろ、おいしいだけではない。値段でもう一度ビックリ。家の近所にも一軒欲しいというK氏の希望もでました。というわけで、初のK氏との溝の口行、題名とは裏腹の珍道中。色々あっての、帰ってからの〈知恵熱〉騒ぎでございます。