悪徳の種子をまく 五月四日〈LIBRE TONSURE〉の記録

もうすでに箱詰めはすんでいるものの、この重い段ボールをカートに積まなければならない。朝一の苦行は、出店者それぞれ、皆様共通の悩みだろうと思う。その苦行はこれからの楽しい一日を過ごすための必須事項でもある。表通りまでの僅かな道で崩れ始めるカートの段ボールをだましだましタクシーのトランクに収納する。最寄りの始発バス停までのほっとする瞬間である。
昨年は地下鉄を使ってみたが、根津まで行けるこのバス路線が、乗り降りはちょっと大変だが、道筋の光景も楽しく、やっぱり一番だ。今回は、車椅子の方と同乗するという機会もあって、貴重な経験さえ味わえた。〈つつじまつり〉で混み始めた根津の通りを、段ボールのカートをなだめつつ、今日の会場である、〈根津教会〉へ向かう。木々に囲まれた薄緑のペンキを塗られた下見板張りの、植民地建築の見本のような、新教の教会らしい清楚な佇まいは、一箱古本市屈指のロケーションではないだろうか。
到着がまだ、少し早かったようで不安だったが、三々五々集まってこられた店主仲間やスタッフさんと、大家さんのご厚意でお貸しいただいた机と椅子で簡単な設営を行うといよいよ、開店準備だ。一息ついたところで、異教徒ながら、教会内部を拝見する。偶像崇拝を拒否する新教の礼拝堂は明るく、慎ましく、子供の時の日曜学校を思い出させる佇まい、近近に改装が行われるそうで内部のほとんどが整理中だが、礼拝堂は改装しないということで、普段通りの清楚な趣がそのまま息づいていた。
十一時の開始前から少しずつ様子見の方もいらして、開店と同時にお客様が途切れない。〈つつじまつり〉で賑わう根津神社の裏道とあって、人通りも多かったが、それ以上に、本を手にとってくださる多かったのは、今回の実感だった。前にもいったとおり、本という商品の性質は特別で、安ければよいというものではないと思う。欲しい本、読みたい本が安いからこそ、買っていただけるのだと思う。ただ、その読みたい内容は、文字通り千差万別で、どなたも自分のイメージを持っているのだ。今回も、自信を持って箱に並べた本が動かず、意外なものがどんどん捌けていくのを眺めながら、そんなことを考えました。
そんな中で、お二人の印象に残ったお客の話をします。
一人はお母さんと妹さんの三人連れの方でした。何度も何度も教会前の会場を行き来して、当店の前に佇むと、店主自信の一組の本をとってくれたのです。それは『シャーロック・ホームズの災難』、編者エラリー・クイーンの古書趣味と、作家以上に探偵小説好きな彼らの趣味が最高に発揮されたアンソロジーです。たぶん、児童向け『シャーロック・ホームズ・シリーズ』を読み切った、ミステリ好きな少女なのでしょう。その本の値付けは、実際めちゃくちゃに安いはずでしたが、小学校高学年の彼女には大変な買い物だったはずです。取った本を繰り返し裏返しながら彼女は「どうしよう」と呟いたのです。ここで、読書の悪魔の出番です。「その本はねえ、エラリーが創ったいろんな作家の短編が集まったお買い得な本だよ」と、悪魔は彼女の背中を押しました。それは本日最高の一瞬でした。きっと彼女は数年後には本郷の旅館で繰り広げられる、すてきなミステリ・パーティーに恥ずかしそうに現れるかもしれません。そのときは、新しいミステリ・ファンがまた、一人増えた瞬間でもあるのです。
もう一人は、お父さんと一緒でした。お父さんもなかなかすてきな本の好みでしたが、その少女は、お隣のお店であの少年探偵シリーズ『魔人ゴング (少年探偵)』を掴んできていました。たくさん並ぶミステリ本に目もくれず彼女は古い背表紙のすり切れた一冊の本を、手に取りました。それは、確かに美本ではないけれど、すてきな本でありました。原書からとられたカラー口絵と、美しい作者ゾナ・ゲールによって前世紀の初めにかかれた夢の物語『幻島ロマンス』でした。店主にとっては『魔法人形(後に『悪魔人形』と改題された)』と並ぶ、「少年探偵シリーズ」屈指の名作品名だった『妖人ゴング』と一緒に買われていった、古めかしい総ルビの本……。
読書という夢の悪徳を、彼女たちに分けて上げることのできた今回は、昨年に引き続き大量の買い付けで店主をまごつかせたOさんの印象(あの本も、あの本も、ありがとうございます)とともに、本を売れる喜びを満喫することができました。
もちろん、目標(笑)だった、完売こそなかったけれど、K氏と軽くなった残本の段ボールを背負って楽しい家路につけました。もちろん帰った瞬間に、来年の心配をする店主と番頭でありました。売る楽しみを与えてくださった〈一箱古本市〉のみなさま、ありがとうございました。
今回の結果報告はうれしいものではありますが、次回も同じコンセプトで進行して、成り行きなりの成績を目指したいと思います。