かたちのないもの

本来、建築とは骨組みと周囲を隔てる構造材で構成された、誰が見ても触っても明らかな確固とした存在なはずなのである。しかし、そこに〈まぼろし〉という形容詞が付いたとたんに、あやふやな、見えるような見えないような存在に変わってしまう。そんな存在を歴史的に俯瞰するなどと言うことが可能なのかどうか。見通しもなく霧の中に首を突っこんだすえに、行き先も分からない体たらくが半年以上続いた。
見えているはずなのに、手を伸ばすと霞となって消えてしまう、そんな状態を、我がプロデューサーは、中二の夏休みの宿題で、修士論文を書くようなものと、形容した。如何にもその通りでろくに前も見もせずに突っこんでいった果ての半年だった。やっと輪郭が見えてきたのは『ノートルダム・ド・パリ』という巨人のお陰だった。十九世紀の先駆的作品は、自分が見ようとした世界を、二百年近く前にすでに見据えてその作品を描いていたのである。
建築という人間の営為から、人間の思考の変遷を辿り、建築自体に人間を対応させることで具体化するという力業は、ヴィクトル・ユゴーという大詩人の膂力を借りなければ、とても追いつかなかったと思う。形があって無いような、奇妙な〈まぼろしたてもの〉の片鱗は、K氏の尽力のお陰で、やっとなんとか見えてきたようだ。