妖夢ってなんだ ?

資料以外の読書は、本当に久しぶり。最近は青い鳥の囀りに引きずられて、空き時間をすっかり取られてしまっている。やっとのんびりできる機会ができたからと、枕元の積ん読本から宇能鴻一郎『伯爵令嬢の妖夢』を選んで終日読みふけった。用務から戻ったK氏になんでまた(今さら宇能鴻一郎?)と呆れられたが、実は結構面白かった。

いささか古風な表題は1968年の出版としてもアナクロなのだが、どうもこれは作者宇能の、主人公の個性を際立たせるための意図的なタイトルのようだ。戦前からの遺風の残る「旧華族」の一家で純粋培養された少女、といっても宇能の書きぶりからは、いわゆるロリータ趣味は感じられないが、その少女の意識下にある性的な願望の達成と崩壊が、テーマといっていいだろう。もちろん、エンターテインメント作品であるから、宇能もテーマを正面から分析するようなことはしていないけれども、六十年代末のカウンター・カルチャー全盛の頃の性意識解放の貴重な証言の一つなのだろう。
「深窓の令嬢」の感じる下賎な異性への禁じられた欲求「妖夢」と、すべてが理想的な婚約者への不満から、親に仕立てられた結婚式をドレスのまま抜け出し、以後偶然に翻弄されながら各地を放浪するというのがメイン・ストーリーだ。失踪の探索を家族に依頼された、これも主人公(の足)に恋しているフェティシストの変態野郎が、結構実務では辣腕家で、最後には異様な形で、自分の欲望を充足させつつ、物語を解決するのである。
その過程が、宇能の独自色なのだが、失踪した女性を探す登場人物を、金持探偵の独特のゆるいキャラクターが行う、破天荒な探査行で構成していて、のちの酒島警部の手法を彷彿させる。これ以外にも朴念仁の婚約者が、魅力的な年上に手引きされた筆下ろしにメロメロになって主人公との婚約を解消する。主人公が幽閉されて異様な仕事に就かされた、高級トルコ(これも死語だが)紛いのセックス・クリニックの中年女経営者のハチャメチャぶりと、その息子の主人公に横恋慕する鎖使いの名人「侏儒」ETC. 全編変態の大盤振る舞いなのである。
そんなわけで、題材的には先行する1965年、早川書房から翻訳が出、即時発禁になったテリー・サザーン、メースン・ホッフェンバーグの、『キャンディ』と、日本で公開されたばかりの映画『卒業 (1967) 』、それから乱歩の『一寸法師』を突き混ぜて使っているようなものだ。ああ、あと『平凡パンチ』の切り抜きね。
しかしながら、登場人物の一人一人に持たせた奇形の性願望が、読者に不快感を与えるどころか物語にユーモラスな色合いを与えているのは、作家の腕の見事なところだし、『キャンディ』が完全な受け身なのに対して、運任せとはいいながら主人公が結構能動的なのも、もしかすると作者の女性観の現れなのだろうか。
そうしてみると結構この『伯爵令嬢の妖夢』、これ以前の土俗的な自省的性描写からの脱却と、後々一世を風靡する一人称女性のモノローグで描写されるポルノグラフィーや、酒島警部シリーズで活用することになる軽いミステリーへの転換点となっている結構重要な作品かもしれない。