シュルレアリスムを遊ぶ 損保ジャパン東郷青児美術館 〈遊ぶ〉シュルレアリスム展

「不思議な出逢いが人生を変える」という意味深長な副題の通り、今回の展示では、まず、偶然という要素から、アンドレ・ブルトンを中心とした人の出逢いの集積としての「シュルレアリスム」が語られ、ついで、作者の意志に囚われない制作方法としての「シュルレアリスム」が語られる。それはマン・レイの写真、マックス・エルンストの版画、サルヴァドール・ダリの絵画とハンス・アルプの彫刻、マルセル・デュシャンやメレット・オッペンハイムのオブジェまで、普段お目にかかれない、バランスよく集められた展示物によって明らかに実証されていた。
いつの間にか、芸術として、歴史として語られるようになった「シュルレアリスム」だけれど、最初の一歩は、若い詩人や絵描きたちの、既存の芸術から抜け出そうとする試みからだった。そこで行われた、たくさんの試行錯誤によって生み出された技法は、後に、小学校の美術の授業や、パーティーの余興となって陳腐化していくが、初期には、数千年にわたって人間を呪縛してきた、空間芸術の持つ構成や、作品のあらわす意義という魔力からの解放だったはずだ。
ただあまりにも自由で束縛を嫌った結果、出て来た作品のかたちは複雑怪奇な様相をなしていき、人の意識と存在に関わりすぎたその「遊び」は、いつの間にか解釈という行為のために、社会科学や精神医学さえ取り込んで、自分たちが否定しようとした意義の世界に踏み込んでいったのである。そのため作品の周囲には、後続の研究者たちによってとてつもなく高いハードルが築かれてしまった。
本邦における「シュルレアリスム研究」の第一人者である巖谷国士さんが、そのあまりにも高いハードルを畢生の業績を賭けて崩そうとした試みが、本展示の趣旨だったのではないだろうか。その趣旨が最も歴然と現れていたのは、今回の図録

なのだが、さらにその意図が顕著に表れているのが、同時に作られた「ジュニア版」と称するブックレットだった。
いまでは、学校の必須授業として「勉強させられる」フロッタージュやコラージュの技法も、印画紙の上にものを載せて感光させるレイヨグラムも、それぞれある作家個人が、「遊び」という重い行為のなかで偶然発見、深化させた技法なのである。
今回多数展示されていた、マグリットの版画を半世紀前の『少年マガジン』の口絵特集で知った少年たちが、ここにあるような素晴らしいコレクションを日本で構成させる原動力になっていたように、今日これを見た少年や少女たちが、もう一度「遊び心」の原点に立ち戻って、楽しく美術や文学と付き合って頂けたら、それがこの展観の一番の成果なのではないだろうか。
そう言えば、二年ほど前国立新美術館で行われていた「シュルレアリスム展―パリ、ポンピドゥセンター所蔵作品による―」でのあれこれ、書いていたのを思い出した。これが真面目な鑑賞法。