『瀕死の白鳥』は殺されていた 「聖なる夜の上映会」Vol.7 チェロとピアノのミニコンサート付き


松島、仙台の旅行以来封印していた映画を久しぶりに解禁。本郷の「日本キリスト教団 本郷中央教会」まで出かけてきた。新教らしい質実ながら、美しい教会である。今回の作品は柳下美恵さんのピアノ伴奏のみならず、サンサーンスの曲からと言うことで、チェロの新井幸子さんと共演だった。
開演前にロビー(前室)で、古書信天翁さんの展示から、懐かしい冬樹社のムック『カルサヴィーナ』(84)と、京橋フィルムセンターの「恐怖と幻想の映画特集』のパンフレット(77)を格安で入手。外出し、駅前の喫茶店「麦」で時間をつぶし会場に戻った。ほぼ満席の中、席に着くと柳下さんと新井さんの紹介があって、まず、チェロとピアノのミニコンサートから始まった。
本編はエヴゲニー・バウエルによる、当時最高のバレリーナであり女優であった、ヴェーラ・カラリの主演による世紀末心理映画とでも言おうか、帝政末期という珍しい時代のもので、四十分超の短い尺にあらゆる要素が詰め込まれたある意味すごい作品だった。特筆すべきは、当時、既にロシアに戻れなくなっていたアンナ・パブロヴァの畢生の名作『瀕死の白鳥』が、自身バレエ・ルッスに在籍したこともある主演カラリによって完全にコピーされて再現されていることかもしれない。
作品の流れは、ワイルドの『ドリアン・グレイ』と、ダヌンツィオの『死の勝利』を足して二で割ったような流れで、ヨーロッパ世紀末の、芸術と風俗の退廃的状況を、この一作で集約しようとしているかのようだ。
主人公の女性ジゼル(!)は、美しい容貌を持ち、舞踊は人並み外れているが、口がきけないと言う設定を持たされている。いわば、知と美の分離、若しくは当時の映画の比喩的な表現と言うことか。
まず物語を紹介すると、冒頭のロシア上流社会での上っ面の恋愛が、恋人の浮気の発覚で瞬く間に崩壊し、落ち込んだジゼルは、父の励ましによって舞踏の世界に没入して、「白鳥の死」をテーマにしたバレエで成功する。その時、芸術上の問題から「死」にとりつかれた画家がその舞台を見て、彼女の踊りに惚れ込んでモデルを依頼するのだが、そのアトリエの様子が誠に噴飯物、と言おうか笑えるくらいストレートに、「死に憑かれた絵描きの苦悩」に満たされているのである。

スタジオの彼女は、言われるままにバレエの最後のシーンのポーズをとり、そのスタジオの風を浴びた彼女は、家にいても、画家の執着する「死の観念」の影響を受け、夜な夜な幻想に責め苛まれれていく。それは死に取り憑かれた彼女の心象風景なのである。疲弊した彼女の精神状態が、画家の望むところとなって、我々には見せないのだが、絵描きは、本人の言う『大傑作」を描き上げる。
しかし批評家(パトロン)の低評価を浴びた画家が、ふたたびジゼルをモデルにして、作品の書き直しを望むのだが、戻ってきた冒頭の恋人を受け入れた彼女は、再び生きる喜びを取り戻してしまった。画家の前で同じポーズをとる彼女だったが、敏感な画家はそこに「死」の匂いを感じることができなかった。怒った彼はポーズをとるジゼルの後ろから、姿勢を修正させようと思いっきり彼女の首に手をかける。ぐったりと思い通りにポーズをとった彼女を画面に写した彼は、満足して彼女に声をかけるが、彼女は再び起きることはなかった。

以上波瀾万丈にみえた作品だったが、見終わってふっと後ろを振り返ると、ここには二十世紀初頭の、ウィーン映画に代表される、風俗的退廃の洗練も苦みもなく、また、『ドリアン・グレイ』でワイルドが描こうとした芸術的退廃もなかった。あるのは、バレエの名作「瀕死の白鳥」を中心に、ただ絵に描いたような世紀末的「退廃世界」の情景が、なんの仕掛けもなく薄っぺらに描かれた物語がとりまいているにすぎない。
一九一七年、多分、この上映された作品を作らせたパトロンたちは、この作品の背後に迫っていた荒廃を予見することもなく、自分の愛人の美しい舞姿を堪能して悦にいっていたのだろう。いや、この作品が、当時のロシアの芸術水準だなどと言うつもりはない、ただ、ここにはブルーベリの描いた狂気も、ソログープが創りあげた心の底からの恐怖もかかれていないのは間違いないだろう。