シャグパットの毛剃

 開巻一読、書を置く能わず。
 古くさい言い回しだが、これが、この本を読み終わった瞬間の感想。
 当時人氣のアラビアン・ナイトの幻想世界を、才気煥発のストーリー・テリングと絢爛たる修辞でもって再現した作品。いわば、ゴシック・ロマンの掉尾を飾る名作だと思う。ただ、残念なことに彼がこの作品を発表した1856年という年はディケンズの「荒涼館」を初めとする大家の作品が目白押しで、この作品もそれらの後塵を拝する格好になってしまったのだった。
 とはいえ、夏目漱石も「創作家の態度」http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/1102_4489.htmlという講演原稿で、物語の最高峰としての「西遊記」、「アラビアン・ナイト」と並立してこの作品を面白味を代表する作品として挙げているくらいだし、訳者序で語っている通り訳者の先生だった小泉八雲も「ヴァテック」と並んで必読書に推薦しているそうだ。幻想文學の達人ハーンが奨めるこの作品、つまらないはずはない。
 訳文も、本文のスピード感溢れる冒険に負けず流麗で、序文によれば明治期に行われたと思しいが、今読んでも古くさくない。自分の中では若松賤子「小公子」に匹敵する翻訳ではないだろうか。
訳者曰く、

思うにシャグパットの如きは天才の樹上に一度だけ咲くことの出来る氣紛れの狂い花ではあるまいか、そして読書子は難渋な彼の諸作に於て迂説強弁する心理学に倦怠を催すに当り、清涼剤として来り助ける此一編の西洋西遊記あるに感謝すべきではあるまいか。

 巻中いくつか挿入されるお約束のサイド・ストーリーも、最初の一編「美人バナヴァー」などはそれだけでも単行本足りうる量を持ちながら、物語の流れを壊すこともない。それどころか、描かれるイメージは後の話の伏線となっているのだから。
メレヂス 「シャグパットの毛剃」皆川正禧譯 国民文庫刊行會
(ペーター「享楽主義者メイリアス 下巻」工藤好美譯の併載)
 さらに付記すれば、ある資料によるとあのビアズリーがこの書の挿絵を構想していたとか、残念ながらイラストレーションに恵まれないこの物語に、見事な挿絵が就いたのかもしれない、と、想像するとチョットうれしい。