「火」幸福なコラボレーション 三度 K書房へ

 自分にとって“人に貸した本は返ってこない”の見本だった森開社版「火」が帰ってきた。発行からもうすでに30年経ってしまったそれは、ユルスナルと多田智満子の白水社版「ハドリアヌス帝の回想」以来の著譯のコンビネーションに野中ユリ瀟洒な装訂という今となっては望むべくもない最高の取り合わせによる奇跡の本ではないかと素天堂はおもうのだ。
 薄いグレーのボール紙製の二重ケースに多分サッポーの自害シーンだと思われる、線書きのギリシャレリーフを描いた古版画を貼り込み、さらに荒い麻貼りの表紙に古い牡牛を殺す天使の版画複製を貼り込んだ造本は素天堂の蔵書の中では野中ユリ装訂の中でも竹内書店版「ナンセンス詩人の肖像」薔薇十字社版「吸血鬼幻想」と並ぶベストだった。
ハドリアヌス帝」で、初めて同性愛という世界を知らされた素天堂は、“アンティノウスの入水”というエピソードで、美しさ故の夭折などという神をも恐れぬ行動に憧れたものだったが、遙けくも來つるものかな。
次のルネサンス錬金術師の精神の遍歴を描いた白水社版「黒の過程」を経て、この底知れない深みを持った、「火」という、いく人ものアンドロギュヌスたちを描いた散文詩集(だと思う)は素天堂の宝物になった。

心(心臓)はおそらく不潔なものだ。それは解剖台や肉屋のまないたにふさわしい。私はあなたの肉体の方をえらぶ。

 この刃物のような宝物を約20年ぶりに受け取るため、多摩川を渡った。