Little Trip in the Midnight to my home

このあいだは、数十年ぶりの甘い夢に包まれながら、千代田線を寝過ごし、日比谷で下りるはずが、千葉県松戸まで乗り過ごすという経験を味わったので、今回は電車を敬遠して赤坂から自宅まで久し振りに歩いてみた。
ですぺら”を出たのが、午前様の0時40分頃。一っ木通りを溜池方面にむかって、客引きのおねーちゃんを振り切りつつ日枝神社の方へクネクネと折れ曲がりながら出る。
 大昔の話をすると、素天堂が赤坂を徘徊していた頃(駅裏の田町通りに三和自動車-ポルシェの輸入代理店があった)には、おぼろげな記憶だがまだ米軍用の「山王ホテル」があった。まだ外堀通に英米外国車のディストリビューターが並んでいて、きらきらしていたころだった。その大通りを溜池方面に進むとあの旧「ホテルニュージャパン」の跡地にたった新しいビル「プルデンシャルタワー」がある。もとのホテルの1階にはまだ珍しかったカフェテラスがあって、制服のズボンにバスケットシューズでその前を通る、中学生だった素天堂には、ほんと別世界のようだったもんなぁ。その赤坂の地で午前様とは出世したものである。
 溜池の大きな三叉路には、今は奥に引っ込んだ小松製作所のビルがあって相当最近までブルドーザーが頭上高く置かれていたのを思い出す。そのまま虎ノ門方面に行くと東芝EMIのビルが曲がり角で、そのちょっと奥に建て替えられた特許庁がある。昔は黒っぽいいい感じのビルだったのだが。
 向かい側を歩いてアメリカ大使館の前を通りすぎると、今では感動もなくなってしまった超高層ビルの元祖「霞ヶ関ビル」の影が浮かんでくる。花形だったのになぁ。その裏に久保講堂(映画の試写会ではイイノホールヤマハホールと並ぶ聖地だった)がある。何時までも工事の終わらない虎ノ門の交差点を田村町に向かう。そろそろタクシーが気になるが、今日は我慢。
 内幸町の交差点はあまり様子が変わらないが、日石本社はまさかエネオス本社になったわけではないだろう。斜め前に航空会館を見つつ信号をわたる。昔は「飛行館」といっていたはずだ。新橋がちかづくとまた人通りが増える。休日前の深夜だからな、と自分を例外にして考える。第一ホテルの方へ曲がって東京電力本社の方へ行こうとするが、考えを変えて十仁病院の方へまた方向転換。土橋よりのJRガード下では鉄骨よりに人の気配がする。覗いてみるとホームレスのおじさんが二人、寄り添って寝ている。人肌は何よりの暖房だものなぁ。外堀通一本隔てると天国と地獄である(どちらが天国であるかは関知するところではないが)。
 日航ホテルの裏側の、金春通は店がはねて、客と女給(古っ!)送迎の車たち、虚虚実実の喧噪入り乱れるまっただ中を八丁目から尾張町方面へ、ところで、某サイトの掲示板に回数を重ねると訪問者の職業が変わる掲示板があって、そこには“銀座の花売り娘”という職業があるのだが、7丁目の角には、今でも本当の花売りおねーさんがいるのです。いつも深夜そこを通ると郷愁と共に思わず花束を買いたい衝動に駆られるのだが、チョット値段を考えて心惹かれつつ、いつも素通りするのだった。
 ここから中央通りをわたって、ライオンの前を通り、銀座松坂屋の角を昭和通の方へ曲がる、ここら辺から人通りはまばらになり旧東京温泉のあたりはもうほとんど人影はない。晴海通と、昭和通の交差点を築地の方へわたり、歌舞伎座の横を1丁目の方向へ進む。小腹がすいたのだが、今日(牛丼最後の日)はさすがに歌舞伎座裏の「吉野家」はもう閉店している。前の方に尾道ラーメンの「柿岡や」が深夜営業していたので寄り道。
 自転車を預かってもらっていた「O書店」の前から自転車に乗り、あとは一目散。自宅についたのは1時57分だった。ラーメン食べなきゃ1時間。
 読む方も疲れたろうが、歩いた私はもっと疲れた。チャン・チャン