出世をしない秘訣/すばらしきエゴイズム 理論社

 何だか、どんどん幻想とも怪奇とも離れていくような今日この頃。
そこへ持ってきてさらに、何とも散文的な表題である。余計なお世話でさえある。しかしこの散文的で余計なお世話なこの本は、「夢の宇宙誌」と共に、高校時代の素天堂に多大な影響を与えた3冊の本の1冊なのだ。もう1冊はまたそのうちにお話しするかもしれないので、とくに名を秘す。
 でこの書の著者はジャン・ポール・ラクロワ、訳者は椎名其二。初版は昭和60年。著者は当時の週刊ユーモア新聞の執筆者。この本でフランスのユーモリスト、シャルル・クロスの名を冠した賞を取っている。全編にアンリ・モニエによる軽妙な挿絵入り。訳者は中断した大杉栄による「ファーブルの昆虫記」を、協同作業で完成させた。大正の僅かな期間、早稻田で教鞭をとるが、その職を放棄、フランスに渡る。
戦中、戦後を装幀職人として暮らし、栄誉を求めず自らの信ずるところに忠実に生きた一生だったようです。その彼が自らの信条とのシンパシーを感じて訳したのがこの本でした。ちなみに素天堂の所蔵本は死後再刊された箱入りの上製本で、発行者のあとがきが追記されているものです。
 もっとも、今でこそ孫引きで偉そうなことを書いているが、高校時代の素天堂にとっては、なによりその徹底的に体制に与しない、非・体制の姿勢をユーモラスに描いているのが小気味よく愉しかったのである。
目次を引用しよう

事業家にならぬためには
いつまでも二等兵でいるには*
視学官にならぬためには
流行作家にならぬためには
政治屋にならぬためには
社会の寵児とならぬためには

というわけで、社会的に意味のある職業について、ユーモラスな語り口と、モニエによる脳天気なカットで皮肉をこめて揶揄しているのである。
「視学官にならぬためには」のなかでのレイモン・クノーによる新兵教育の教官だった頃の実例を挙げよう

ちょいちょいと、教案をそっちのけにして、講義に面白おかしい話をさしはさむがよい。例えば諸君の頑是ない子供らに、地球が平らであるとか、太陽が地球のまわりを廻転するとかいうふうなことを教え給え。

まぁ、こんな教師は教育委員(視学官)にはならないし、なれもしないとおもう。それで将来は「地下鉄のザジ」でも書くことになるんだろう。
訳者は戦後になって帰国し、この訳書を残した。発行者のあとがきによると、彼は神保町の“いもや”の天ぷらがとにかくお気に入りだったらしい。フランスからの手紙でもその事が書かれていたのだそうだ。フランスに戻りその地で客死する。
のちに訳者の評伝を書くことになる、ある人物に対する評を引用してこの文を閉じることにする

(彼)は知的に文字通り正直(せいちょく)な人で、どういう談話の中でも、言うことはこのゆがんだ、このひしがった、この不合理な、このみにくい世相の中でそのまま辛辣な批評とも諧謔ともなる、私の敬愛する青年である。

    *徴兵制度下では兵隊にならずにいるわけには行かないのである。