幻の恋人  「モーパン嬢 上下」

テオフィル・ゴーティエ 田辺貞之助譯 新潮文庫    http://www.fukkan.com/list/comment.php3?no=3817

 最初、タイトルを「幻の女」としようと思ったのだが、ウールリッチの“Phantom Lady”と混同されそうなので、本文末尾のこのフレーズをタイトルにすることにした。
 書名だけが目の前にあって、見つけることさえできなかった本というものが素天堂には何冊かある。周辺の幻想文学関係の作品はそこそこ手に入ったものの、ロマン派詩人の小説デビュー作のテオフィル・ゴーティエのこの作品「モーパン嬢」こそ、素天堂にとってはその一冊であった。戦前には江戸川乱歩の抄訳という名目で「女怪」と称して発行されていて、勿論それには素天堂も目を通しているのだが、印象に残ったのは素晴らしい建築描写ばかり。詳細で煩瑣な心理描写や濃厚な恋愛描写がカットされているのだからそれもしかたないだろう。いや、今読んでも新潮文庫版の恋愛描写は充分濃密で素晴らしいものだったから、戦前の日本などでは当然全文発表などは不可能だったろう。ゴーティエといえば七十年代の始め學藝書林から「サバチエ夫人の手紙」という、当時の高級娼婦とやり取りしたポルノグラフィックな艶書が訳出されたことがあったが、いかにもその作者らしいエロチックな描写ではあるとおもう。
最近、近所の古書店で「モーパン嬢」を見つけることができたときは信じられない思いだったのだが、とにかく読んでみることにした。最初はいわゆる男装の麗人が出現する風変わりな小説、そんなつもりで読み始めたのだが、なにしろ饒舌で、有名な「序文」それはいわばロマン派文学宣言なのだが、それが四十六ページ。内容が濃くて楽しく、中世小説や死體小説!(←そんなジャンルって)、に対する評論家の反応のパロディなど滅茶苦茶面白いのだが、読み切るまでがとっても大變。
 やっと始まった本文は、主人公の一人の理想の恋愛観の披瀝がまた長い。分からなくはないが、いい加減にして欲しくなりかけるとやっと恋愛劇が始まる。それでもこの主人公はいろいろ文句があって、現実の女性と付き合いつつも、その空虚さを嘆くのだ。昔パスカルキニャールの、バロック的小説と称する作品「シャンボールの階段」を読んだときに、行く先々に女がいるのにのめり込めず、煩悶する主人公に“とりあえず女がいるんだからいいじゃねえか”と呟いた素天堂の同じ思いが湧き上がってきたものだった。しかもそのお相手は若き美貌の未亡人で性格も好いときては、あんた我が儘ばっかりいってんじゃねえよと、再び突っ込む素天堂であった。それにしても、西欧人の性愛に対する真摯な取り組みは、それに甘い日本人のうかがい知れない深淵をもっているのかもしれない。いわばこれこそが彼らのもう一つの宗教なのかな。だから、行き着くところは、やっぱりバタイユのいう「死に至る快樂」なんだろうなあ。そのうえ、心理描写や風景描写が微に入り細を穿っているので、その語り口になれないものには苦痛かもしれない。とはいえ、「金色の目の女」のときに書いたが当時のフランス小説は枝葉末節に渡る細密描写が楽しいので、もう、それになれて頂くしかない、の一言かな。
そうすればそこにちりばめられた若きゴーティエの、研ぎすまされた建築・庭園描写とか、全身全霊を打ち込んだ芸術論(文学のみならず、劇や美術、建築に至るまで)を堪能することができるだろう。まあ、緩やかに各種の文章表現を駆使(書簡體、小説、戯曲まで動員される)して、とうとうと進む長広舌の流れの中に、いつの間にか不思議な人物が登場する。その登場人物は、男性と女性の区別が歴然としていて、しかも上流の子女は結婚前提でなければ、異性とも知り合うことができず、知り合ったとしても建前でしか相手の内面を窺えない現状の風潮に竿をさして、何と男装して、遍歴の旅に出てしまう。あちこちで旅の男性に混じって暮らしながら、現実の男性を知ろうとするわけだ。いや、現代でさえなにをかいわんやの行動なのだから、当時としては話題沸騰の作品だったろう。遍歴開始の晩の男性と一つ寝台で寝るシーンの心理描写なんて、スリリングですよ。白々と夜が明けると、ホッとします。そんな遍歴のなかで、見えてくる男性の本質への失望とか、(美貌故に)自分に寄せられる同姓からの好意とか、そんななかで、彼女の心中に変化が起きてくる。

實のところ、あたしは男性女性のどちらでもないのです。あたしには女の愚かしい從順さや臆病や小心ぶりもありませんし、さりとて、男のいろいろな惡習や不愉快な放蕩や亂暴な傾向もありません。――あたしはまだ名のついてない、別の第三の性に屬しています。それが普通の男性や女性よりも上にあるのか下にあるのか、すぐれているのか劣っているのか、それは分かりませんが、あたしは女性の肉體と魂とをもち、しかも男性の精神と力とを具えています。そして、どちらかの性の人と一對になるためには、兩方の性質をあまりに持ちすぎるか、または持たなすぎるのです。           同書下 476p

 面白いのは、主人公の男性が、男装の彼女に惚れ込み、「俺は男を好きになってしまう」と悩むシーンがあって、しかし、その後ある経緯から彼の好意の対象が実は男装の女性であったことが分かるのであった。しかも、主人公のお相手である若き未亡人は、彼女を男性として求愛までしてしまい、その結果、その兄とモーパン嬢=テオドルの決闘沙汰にまでおよんでしまう。それでも彼に対する恋心は物語の最後まで続くのである。もう、どうにでもしてくれの展開であるが。しかし、モーパン=テオドルとしての存在は、前に引用したとおり、その中間的存在としての行動に出る。
先ず彼女=彼は、主人公の青年の前に、あるべき女性として姿をあらわす。

ロザリンドは手をはなして、肱掛椅子の背に指先をつき、じっと立った。そして波うつ曲線の豐かさを際立たせるように、輕く腰をくねらせた。――恥しそうな氣配も全くなく、ほのかに薔薇色を帶びた頬には僅かな赤味も見せなかった。ただ心臟のときめきがいくらかせわしくなって、左の乳房の輪郭を少しふるわせているだけであった。
敬虔な美の渇仰者はあくことも知らずにこの麗容に見とれた。今度は現實が遙かに夢を凌駕しいささかの失望も感じさせなかった。このことを見ても、ロザリンドの美しさがいかに卓越していたか分かると言わなければならない。
彼の眼前に立っているこの美しい肉體には一切のものが綜合されていた。――かよわさと力強さ、形態と色彩、最盛期のギリシャ彫刻とツィシアノの色調。――彼は、幾度となくそのはかない姿を捉えようとして叶わなかった朧ろな幻影が、ここに可觸の結晶となっているのを見た。同書下 493-494p

引用はしませんが、もうその晩の椀飯振舞たるや、その主人公に、悩んで待っててよかったねの状況であったのであります。さすがのゴーティエもその回数にまで筆はおよんでいないが…… さらにそのモーパン=テオドルは、返す刀で彼女(彼)を思い続けるかの女性にまで、その饗応を繰り広げるのであった。そして、その後朝の朝のモーパン=テオドルの手記にこの作品のテーマは込められていたのです。

若しあたしを失った悲しみに耐えられないようでしたら、この手紙をお燒き捨てになる方がよろしいかと思います。そうすれば、あたしを戀人になさったことの唯一の證拠が消えて、一切は美しい夢だったとお考えになれるでしょう。誰がそうなさるのを妨げましょう。幻は夜の明ける前に消え去ったのです。夢が角笛や象牙の門を通って、銘々の棲家に歸る時刻に。――幻の戀人に接吻の一つもできないで死んで行った、あなたよりもずっと不幸な人々が、世の中にはどれだけいることでしょう。   同書下 501-502p

そのとき、この作品は徹頭徹尾「至上の戀人」「至上の戀」の探求が主題になって、男、女、そしてどちらでもあり、どちらでもない三種類の性が、それぞれの「究極の愛」をさがす、いわば性愛的テーマによる聖杯伝説なのではあるまいか、と思い至った。女性同性愛を「金色の目の女」で取り上げたのだからこの同時期の(1835年)、この作品も取り上げないわけには行かないと思っていたのだったが、この作品はどちらかといえば、バルザックでいえば「セラフィタ」に近いかもしれない。いわば、祕教的宗教観のないアンドロギュヌス・テーマなのですね。
確かに、すれっからしになってからこの作品を読んだから、これくらい冷静に読めたのかもしれないが、若いときに出逢っていたら、きっと、怒り狂うか、熱狂するかのどちらかだったかもしれない。
それにしても、モーパン=テオドルはもういない。彼女たちの寝乱れた寝台の上に二粒の真珠を残して、どこともしれず去っていったのだ。