命がけの全肯定 ケストナーのユーモア三部作

 「雪の中の三人男asin:4488508022」「消え失せた密画asin:4488508014
「一杯の珈琲からasin:4488508030」「ケストナーの生涯asin:4828832394
 ポール・ギャリコ「ハイラム氏の大冒険asin:4150401160
まずきっかけはチビで眼鏡のハイラム氏との再会から始まる。大昔のテレビコメディー・シリーズで名前を知っていた彼の登場作「ハイラム氏の大冒険」は、買ってはいたものの積読のままで整理してしまっていたものを、最近入手できたので、やっと読むことができた。テレビの印象から「ゼンダ城の虜」のパロディーくらいに思っていたので、発表当時のヨーロッパ情勢が生々しかったのでちょっとビックリだった。とはいえ、ストーリーに絡んで繰り広げられるヨーロッパの街並の描写は美しく、物語も騎士道もののパスティーシュとして、優れたものだった。だからして最後のローマでの決闘は、まこと紅涙ものであった。発表当時の背景として、当然、ナチズムの興隆期でもあり、それとのたたかいが、ハイラム氏に課せられていたので、勿論、ベルリンでも彼は正面からナチの高官と意外な形ではあるが闘うことになる。それについて、あるサイトで、批判的な評が挙げられていた。勿論好ましい形ではないが、ナチへの抗議としての形ではあり、例えばマレーネ・ディートリッヒの名作「間諜X27号」のような女子英雄譚として読めると思うので、ちょっと、無駄な死としての批判はハイラム氏の相手にとって悲しいと思った。だって、彼女はとてもかっこよかったのだから。時期的にナチの横暴がヨーロッパを覆っていった頃でもあり、全体をそれに対するアメリカから見た批判が占めているのはやむをえない。
ところが、ケストナーはドイツの国内にあって、ナチのナの字も出てこない太平楽なユーモア小説三部作を、国外とはいえナチス勃興期に発表していたのだ。特に「消え失せた密画」はミステリとしても一級で、どんでん返しの繰り返しと終末部でのバーレスクじみたギャグの応酬と共に、三部作中の最大傑作にうたわれるにふさわしい出来である。それなのに、訳者である小松太郎も、評伝を書いた、しかも友人でさえある高橋健二もあまり好意的にこの作品群を捉えていない。全ての階級がゴチャ混ぜになり、しかもその位置が逆転さえしているそんな小説をなぜ彼、ケストナーは書いたのであろうか。紹介者にとってケストナーは風刺詩人であり、さらに良質な風刺小説「フェビアン」の作者でもある。その故にナチから忌避され国内で作品を発表することさえ出来ないそんな中でこれらの作品は書かれたのだ。風刺というのは健全な風潮でこそ成り立つ行為だと思う。全ての体制の流れがヒステリックに高揚しているとき、風刺はわが身を刺す刃にこそなれ、対象を刺すわけにはいかないのは、そのときのドイツだけのことではない。そんな中で彼が目指したのが、自らが望んだ理想の体制を表現することだったとしたら、それこそ彼にとって命がけの抗議だったのではないだろうか。ここで書かれているのは、良質のユーモアで包まれた、上流階級と失業庶民の、倒錯した、つまりはあるがままで最良の関係としての自由な混沌なのだから。だからこそこんなおとぎ話を、現実に新秩序を目指す代表として、「雪の中の三人男」が発売されたときにはゲッペルスは禁止したのだ。しかし、それでも外貨獲得のため海外での出版は許可された。そのあとで書かれた「消え失せた密画」には明らかに当時の状況をほのめかしたような箇所が散見される。それは、思わずもらしたケストナーの本音のような気がする。

シャンデリヤが割れて飛んだ。ガラスの破片が雨のように降って来た。明かりを求める声と、助けを求める声が、ますますはげしくなって、だんだん気味が悪くなって来た。地獄がはじまった。悪魔も、哀れな罪人も、何一つ見えない地獄!  同書162p

最後に書かれた「一杯の珈琲から(小さな国境往来)」においては、もうそんなほのめかしさえ見えない。状況こそ似ていてるが、そこにあるのはラブストーリーと機知にくるまれた絶望だけだ。それからの戦後にいたるケストナーの生活は、あたかもよくできた冒険小説を見るようだ。それにしても、体制に迎合したり、反体制に殉ずるのはやすい。もっとも、難しいのはいかなる場合にも全ての体制と距離をおき、みずから欲するままに生きることなのだとおもう。だからこそ彼でさえ、戦後、全ての体制がうやむやになったとき、幾冊かの児童小説をのぞいて彼の創作力はその行き場を失ってしまうのだ。それにしても何でこんなに堅い話になってしまったのだろう。せっかくのケストナー話だったのに。