表現派の幻想 伯林白昼夢 フリードリッヒ・フレクサ エディション・プヒプヒ刊

http://d.hatena.ne.jp/puhipuhi/20041231#p1
街の魔力、というものがあります。歩きなれた街のある路地を曲がった瞬間、そこが自分の知らない場所であるような錯覚を持たされたり、逆に、知らない異国の街を歩いていて、突然そこが自分にとって、既知の場所であるように思わされる、それなのに後で考えてみると、どうしてもその街の所在を確かめることが出来ない。そんな経験を久しぶりにこの作品で味わいました。二十世紀初頭、街というものの魔力にとりつかれたドイツの若い芸術家たちが創りあげ、さらに日本などにも飛び火して大きな運動になっていったのが、新しい芸術観「表現主義」でした。それは、それまでの芸術が持っていた民俗的な恐怖や幻想に対して、自動車をはじめとする当時のハイテク機械や都市のメカニックなシステムが人としての存在を脅かしてくるようになった、現代都市の流れの中での新しい幻想であり、恐怖でした。街に佇み、街をさまようなかでのいいようのない不安感から、少しずつ巻き込まれていく奇妙な幻想が生まれてきたのです。ここで紹介されているフリードリヒ・フレクサもそんな作家のひとりのようです。ここで描かれているような、人とものの曖昧な境界というものが登場するのもこの頃のことではないでしょうか。ショウウィンドウの中に佇んでいる影が、人なのかマネキンなのか、まして、マネキンを片づける男の方がまるで人形に見えるような、そんな眩暈が、ある種のピグマリオニスムと相まって、最後のカタストロフへと向かっていくのです。そこでこんな一節が登場します。

その身体<フィギュア>をなおも眺めているうち、建物に挟まれた街路に垂れ込めていた仄<ほの>暗い朝霧を透かし、日光が射しこんできました。そのおかげで分かったのですが、人形細工師は何もかも等閑にしていませんでした。自然に見られる些細な傷さえ忘れていません。耳の下や頬の上には小さな雀斑<そばかす>や柔毛<にこげ>までがちゃんとありました。フレクサ同書8p

ここで、もうひとつ

わたしの目の前のガラス箱の中に女の顔があった。彼女は糸切歯をむき出してニッコリ笑っていた。いまわしい臘細工の腫物<しゅもつ>の奥に、真実の人間の皮膚が黒ずんで見えた。作り物でない証拠には、一面にうぶ毛が生えていた。
「白昼夢」 光文社文庫版 江戸川乱歩全集 第1巻434p

小酒井不木も指摘しているとおり、【019不木書簡 皓星社刊「子不語の夢」53p 】 フレクサが19年、乱歩が25年と微妙な年差はあるけれど、ここでは、当時の尖端都市であるベルリンや東京という街での、グロテスクな人間=人形幻想ということで共通しています。また「犯罪科学 別巻」の口絵にも登場しているように、当時流行していたあたらしい舞踏の形式にも、ことさら機械的な動きを取り入れたりして、即物的な身体=フィギュアの風潮が一部に勃興してきました。
乱歩をはじめとする探偵小説の初期作品を、すべて表現主義とは呼びにくいかもしれませんが、街でなければ暮らせないのに、そこでは人としての存在を蚕食していく、都市としてのシステムが育ってくる。拡がりつつ自分に迫ってくる不安をそのように描かざるを得なかった、そんな雰囲気がある意味、探偵小説の揺籃期であった当時の、エロ・グロ・ナンセンスという軽佻浮薄の見本のような言葉にはあるように思います。不木・乱歩・フレクサの三題噺が、何だか小難しい話になってしまいました。