薔薇十字に輝く日々 「夕暮の階調」 塚本邦雄 人文書院1971刊 本阿弥書店再刊1988 

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再会は、十数年と云うより、二十数年ぶりかも知れない。
この人生で本もそこそこ買ったが、売った回数も先年の引っ越しによる大整理をはじめとして、限りない。不要本の整理と云うより、本を売って本を買うような暮らしを数十年続けてきた。精神衛生上大変よくない暮らしといえよう。
探偵小説に興味を持ち始めた、高校時代に「シャーロック・ホームズの知恵」をはじめとする長沼弘毅のいわゆる“シャーロッキアーナ”シリーズに嵌ったことがあった。最終的には「S・Hの大学」など9冊くらいになったと思う。最初の「知恵」以外は、すべて伊丹十三のイラストによる装幀だったはずだ。その瀟洒なシリーズも、ある日の飯代に変わってしまった。どこの本屋で売ったかまで覚えているくらい悔しかった。ほかに「迷宮としての世界」などは、何度も売っては買いしたものだった。やむを得ないとはいえ、この本もそんな売ってしまった本たちの、忘れられない1冊だった。
 「夢の宇宙誌」との出会いから澁澤龍彦に興味を持ち始めた当時、友人だったある書店から、今度、こんな雑誌がでるよ」と見せられた、大きくデルヴォーの繪をあしらった予約パンフレットが、この巨大な修辞の魔王との出会いのきっかけであった。勿論定期で買い始めた“こんな”雑誌こそ、寿命としては3号限りのカストリ雑誌で終わったが、そのコンテンツと成果は薔薇十字社本として絢爛たる華を咲かせることになる。種村季弘野中ユリ「吸血鬼幻想」加藤郁乎「膣内楽」澁澤龍彦「黄金時代」ジイップ+森茉莉「マドモアゼル・ルウルウ」と挙げるだけで心ふるえる発行書目の中でも「血と薔薇」の最も純粋な果実であった「悦楽園園丁辞典」こそ素天堂の“フェヴァリット”であった。「血と薔薇」という傲慢で読者を選ぶ贅沢きわまりない雑誌の中でも、特に読者におもねることを潔しとしなかったのが、塚本邦雄の「悦楽園園丁辞典」だったのではないだろうか。入り浸っていたその本屋の店頭で、白玉書房刊「塚本邦雄歌集」の告知を見つけたのは、まだその興奮さめやらぬ頃であったから、ほんとうにその場で値段も考えず注文してしまっていた。その本の印象は、昨年のこの日記にも書いたことであり、詳細は省こう。
さらに、追いかけるように人文書院からこの評論集の出版予告が発表された。
マンディアルグ「大理石」出版と殆ど同じ頃だったが、発売日間近になって注文すると、友人はその場で京都へ問い合わせの電話をかけてくれた。時、既に遅く版元には在庫が無いというのだ。予告には記されていなかったが実は一五〇〇部限定だという。それを聞いて、縁がなかったと一瞬あきらめたものだった。ところがいつものように翌日、アルバイトの本の配達で大森周辺を走り回っていたときだった、大森駅前の本屋を覗くと、なんとショーケースの中に、この本が光り輝いていたのである。素天堂は著者によって選ばれた一五〇〇名に自分も加わることになったのだ。
「悦楽園の園丁」によって、悪意ある豪奢にからめ取られ、その「歌集」によって園丁(魔王)の正体を知らされた、愚昧な読者にしか過ぎなかった素天堂にとって、この評論集「夕暮の階調」は、華麗な修辞と古往今来にわたる固有名詞をはじめとする絢爛たる語彙にめくらまされただけの、許されざる読者ではなかったか、と今にして思う。しかしながら、「歌集」の世界にくり広げられる世界の眩さのままに翻弄されて、結局その奥深い内部に触れることさえ出来ない、初歩的でさえもない読者には、その書を手元におくことさえも不遜であったのだろう。彼にとって塚本は結局塚本であって、その指し示す古典の世界にも、現代の歌人にも遂に拡がることも深まることもなく、塚本のペンによって構築されていく、立て続けに出版される幻影の散文世界に埋没していった。
今、読み返してみてなお、三〇年近い時を過ごしながら、未だにその水準のままで立ち止まっている自分を発見して、内心忸怩たるものがある。読み始めにはメモなど取るのもおこがましいと思っていたのだが、結局いくつかの煌めきを放つ言葉に立ち止まらざるを得なかった。

異端例外とは果たして如何なる権力者の正統と原則を一方において決められたのだろう。「異端者の系譜」271p
会いにゆかねば会ってはくれぬ、光余りにも強烈なるゆえに隠蔽された、有害の装いにつつまれた生命力と叡知が存在するのだ。「異端者の系譜」274p

まるで芸術がファッションとして、異端的であることが当然なようにもてはやされ、それらの書を手元に引き寄せるのがネットを通じて容易に行われる現在でも、この言葉は重い。まして、活字という確実ではあるが所在を限定されるものを通してでなければその存在に触れることが出来なかったその頃、今の数十倍もの重さをこの言葉は持っていたはずだ。