愛の時にかえる呪文「メアリー・アンセル」 「怪奇礼讃」ISBN:4488555020

アンソロジーの醍醐味といえば、選択の視点の妙と、構成を味わうものだが、もうひとつ、モノグラフでは見つけられない作品にめぐり逢えることだろう。この作品集は昨年の夏評判になったものなので、例によって今更なのだが、やっと今頃読み始めた。編訳者の言葉通り、選ばれた作品も凝っていて、例えば、ベアリング・グールド(といっても「シャーロック・ホームズ―ガス燈に浮かぶその生涯 」の著者ではない、考古学趣味のイギリスの牧師さんで、ご本人は「シャーロック・ホームズの愛弟子 バスカヴィルの謎」ローリー・キング に重要な人物として登場する)の本人のちょっと怖いイメージとは裏腹な、洒落た小味な作品「死は素敵な別れ」とかが選ばれている。
そのなかで今回取り上げるのはマーティン・アームストロング「メアリー・アンセル」。
話は、イングランドの東の果、白く切り立った崖の上に残る廃城。そこを毎週毎週訪れる、初老にしかみえない、疲れたある田舎町の宿屋の女将の奇妙な習慣から始まる。地元の人々がからかい半分に「散歩」と呼ぶ1週間に一度のそれは、実は彼女の、18年前第1次世界大戦に出征し、ドーヴァーの向こうで死んだ、彼女の恋人との苦行に近い再会の儀式なのだった。その甘かるべきストーリーを、作者は、刈り込んだ文体と簡潔な描写で、主人公の喪失感と、悲しみを誰にも知られず持ち続けた、すさんだ心の中を淡々と紡いでいく。恋人の想い出といえばわずかに、毎週の逢瀬のあの廃城の地と、彼の母親から送られたその肖像と、彼の数冊の蔵書が彼女の居室に残されているのみだったのである。
ある冬の日。その日も彼女は恋人との儀式を寒さと絶望とのなかで過ごし、疲れ切って自宅の宿に帰った。そのメアリーを待っていたのは寒さを避けて彼女の居室で暖をとる、二人の若い旅行者で、休憩する彼らは、田舎には不似合いな彼女の“蔵書”を興味深げに詮索し、そこに持ち主の名前のサインを発見する。それは彼女が、彼女のために自らのあるべき名、恋人の姓と、自分の名前をくみ合わせて、そこに書き込んだものだった。それが、この不機嫌でぶっきらぼうな女主人の名前だと思った、若い二人は、帰りがけ、わずかなお愛想のつもりで、むっつりと今の夫と仕事をする彼女に声をかけていくのだった。
「お休みなさい、アンセルの奥さん」と。
この言葉こそ彼女にとって、18年に及ぶ、喪失感と絶望の日々を一挙に埋め、40歳の彼女をその青春時代に戻してくれる、魔法の呪文だったのである。