「彼方より」の呪縛 幻の母への慟哭  ISBN:4309017150

sutendo2005-07-10

つい最近、入手できた深夜叢書版「彼方より」を読み返したところだった。出版当時、素天堂自身は深夜叢書版を買えるはずもなく、持っていたのは後から出た潮出版社版だった。まず「中井英夫」の名前を知ったのは三一書房版作品集の出版予告パンフレットだったと思う。青灰色の瀟洒なパンフレットにひかれて手に取ったフランス装箱入りの美しいその本は、素天堂にとって澁澤らの作品とともに、重要なものになった。何度も読み返して背に手ずれのできた頃、講談社から文庫が発行された。文庫本の装幀に飽きたらずはじめて改装を考え、見よう見まね手探りで、友人の作った大判のクリスマス・カードを流用して制作した。いま見れば悲しいくらい情けないものだが、当時としては、それが精一杯だったのだ。それから少しずつ発表される、文字通り珠玉揃いの作品をゆっくりと手元に置きつつ、「黒衣の短歌史」「見知らぬ旗」と自分の世界に取り込んでいった。
そんな中で「彼方より」は自分にとっては文字通り目からウロコの内容だった。参謀本部という軍の中枢にいながら、反軍の思いを紡ぐというその内容は、いわゆるその頃隆盛だった「焼け跡ヤミ市派」の中途半端な被害者意識にうさんくささを感じていた素天堂にとっては、この裏切りこそが本物に見えたのだった。さらに随所に現れる、新聞記事の引用を含む身辺雑記には、「虚無への供物」で感じた、風俗の中に入り込みながら、決して同化しない、〈人外にんがい〉としての醒めた目が、もうすでにここから始まっていたのだと思わせる。下士官としての業務を続けながら、終戦の直前に重病を患い、意識不明のうちに終戦を迎えるという、アンチ・クライマックスこそ、この作家にふさわしいこの日記の終章なのであった。
最初に手にして開いたのが、本書の圧巻である母を失っての慟哭連祷であったのはもしかすると偶然ではなかったのかもしれない。二〇歳前後の、末っ子だからこその母への甘えが、憎まれ口となって、病み上がりで体の不自由な母に向けられるのは当然で、それは彼にとっては、普通にそのうち埋め合わせのつく仕打ちだった筈だ。突然の母の死さえなければ。そうして、母への思いも含めて、すべての埋め合わせが一方的に断ち切られてしまう。取り返しのつかない喪失感が、彼の行く末に大きな長い影を翳し続けた。ここから本人の性向もさることながら、中井自身の問罪意識が、何時の日もその後の彼をおおっていたであろうことは、その後の多くの作品に窺える。だから、この日記の出版こそが新たな中井作品の解明の鍵となりこそすれ、中井の作家としての評価をこの「完全版」が貶めると考えるのは、杞憂にすぎない。