寝ぼけ署長 山本周五郎 同小説全集別巻3 新潮社1970

中学生時代、山手樹一郎の「十六文からす堂」シリーズを読み倒して以来、時代物と縁のなかった素天堂にはこの作家は一番遠い存在だった。題名から見ても捕物帖的人情噺のにおいがして、敬遠していたこの作品。実は所収のアクション小説「失恋第五番」「失恋第六番」とともに、戦後における大衆小説の、新しい試みの先駆だったことがわかる。もちろん、最初の3作品「中央銀行三十万円紛失事件」「海南氏恐喝事件」「一粒の真珠」などは、まあ、思いこみどおりだったが、その初期の3作品にしてもその次の「新生座事件」も含めて、戸板康二雅楽もの」で花開く、いわゆる日常の謎の先駆なのである。また、事件への探偵役自身の積極的介入というこのシリーズの大部分での手法に関しては、第一話で述べられる〈犯罪としての立件以前に解決させる〉という、主人公五道三省の基本的な考えによるもので、探偵小説としては若干逸脱しているかもしれないが、作品を読む上では十分納得させられる。とくに第七話「毛骨屋親分」は介入それ自体がテーマで、署長自身の、顔役との息詰まる対決自体が、緊迫したストーリー展開とともに、胸のすく思いを味あわせてくれる。
さらに連載継続が決まった後の、連作後半、一挙に時代作家らしからぬ(それが素天堂の心得違いだったことは同書の解説でわかる)着想の作品が出現する。まず、第六話の「夜毎十二時」は、一転、署長の下に届いた、死にかけた富豪が夜中に見る“まぼろし”についての訴えとそれにまつわる、遺言書の書き換えという、見事にゴシックっぽいエピソードで、陰気な洋館に暮らす家族たちは〈お互いに反撥し忌憚いみはばかって〉いながら、富豪の許を離れることもなく、その非業の死を見届けなければならない。そこに潜む心理の綾を解きほぐす署長の手法は、またしても人情噺的な介入なのだが、怪奇な謎とその合理的な解明に関しては、キチンと探偵小説になっている。
第八話「十目十指」郊外の耕作地と新興住宅地の入り交じる地区での単純な畑泥棒に対する告発、に見えた事件が、実は偏見と差別に満ちた中傷であることを、ニュートラルで、ユーモラスな語り手の口から徐々にあかされる。「みんなが言っている」という証明不能のうわさの恐ろしさは、まるで、シャーリー・ジャクスンの短編のようだ。最後の迫害される農家の「嫁」の血を吐くような長ぜりふは、まるで魔女狩りにあった被害者による、最後の叫びのようで耳をふさぎたくなるくらい痛ましい。
ラス前の「我が歌終わる」。この作品集の中でもっとも探偵小説らしい探偵小説。退廃的な生活のあげくの、下半身不随の当主の密室での死。死せる当主の表に現れた生活とは裏腹な陰鬱な書斎の様子と、ワイルドの「ドリアン・グレイの画像」にはさまれた、まるでダイイング・メッセージのような書き置きが指し示す、彼の死の理由と手段。そこに出現する、なぜ密室でなければならなかったかの必然性が素晴らしい。ここには素天堂の知る限りもっとも耽美的な死が存在する。
最終話「最後の挨拶」うってかわって、介入と工作の入り乱れる、いかにもこの連作にふさわしい最終章。なぜか行方のわからない時計師の死体なき殺人から始まった事件は、時計を使ったかわいい暗号を説くことで、エンディングを迎える、見事なアンチ・クライマックス。読み終わって、話のヴァラエティの豊かさに読者はため息をつき、そのうらで小説巧者である作者の、満足のため息が聞こえてきそうな名作品集だった。
この作品が書かれた昭和二十一年といえば、終戦後のもっとも悲惨な時代なのだが、この中には第七話「毛骨屋親分」を除いて(もっともこの作品でも闇市という言葉はつかっていないが)、終戦後の混乱期の風俗をあえて避け、時代設定を曖昧にして、いわば、ある過去の時代と架空の都市に舞台を設定しているようだ。この後に「新青年」に書かれた2作が、徹底的に戦争末期の悲惨と終戦後の混乱の中での荒んだ風俗を描いているのと好対照である。この2作「失恋第五番」「失恋第六番」はしかし、軽い恋愛とタフな主人公、スピーディーな展開で、その後に現れる、いわゆる貸本小説としての通俗冒険アクションものの原型となったのではないだろうか。