「建築」という雑誌 毛綱モン太(毛綱毅曠)を中心に

最近、建築のことでお話しできる相手が出来て、思い出した人がいる。今回も死児の齢を数えることになるのだが、どうかご勘弁いただきたい。きっかけはちょっと前に書いた「YELLOW BOOK」の時だった。その頃の手帳に挟まれた何枚かのメモがその頃の探求誌を思い出させたのである。
例えば、その頃は単行本などでは読むこともできなかった項目についての広範な連載、「日本の中世主義」さらに「建築の世紀末」「ユートピアの建築」「ルドルフ・シュタイナー建築ノート」ETC。これらの連載論文を掲載していた、その雑誌には妙なペンネームの作者による“奇妙な建築ルポ”が不定期で連載されていた。文字通り存在自体が奇妙な、静岡の「乞食城」だとか、崖の中腹に創られた「投げ込み寺」だとか、そんな一般的な建築論では無視されている、建築存在としかいえないものを、日本中訪ね歩くものだった。書いている作者は“毛綱モン太”。もづななんて読めないその頃は、ケツナモンタ、けちなもんだの語呂合わせだと思い込んでいた。しかしその論考はすでに過去のものであり、とうとう完全にはそろえることはできなかった。メモに並んでいたのは、とっくに廃刊されていたそのバックナンバーの欠番探求メモだった。その後、彼の作品では唯一の一般向け新書で発表された「七福招来の建築術」という奇妙な啓蒙書が唯一の自分にとっての蔵書であった。
それにしてもその「建築」という雑誌の内容は、後からついていった外様の自分にとっては奇跡にしか思えない陣容だった。鈴木博之長谷川堯をはじめとする、もちろん毛綱モン太もだが、この先走りしすぎた(としか思えない)著者の顔ぶれと、見事な編集方針は一体どんな風に決められていたのだろうか。