歴史を眼で見る ということ 

シサムネス

「中世の秋」J.ホイジンガ 堀越孝一訳 中公文庫 中世の秋〈1〉 (中公クラシックス) 中世の秋〈2〉 (中公クラシックス)
「世界の名著」「単行本」と手元に置きながら、敬遠していたこの本をやっと読了することができた。
ここに書かれている、視覚本意による歴史記述を堪能しながら考えていた印象から、戦後も比較的新しい著作だと思い込んでいたのだが、実際に書き始められたのは前世紀初頭の一九一一年からだという(初版は一九一九年)。いわゆる、それまでの歴史家からは無視されていた、ミクロの視点を取り込んだ「アナール学派」の著作が日本語で目に付くようになったのが八〇年代のはじめ頃だったから、何とも先駆的な研究だったのだ。
自分が歴史の本を読むときにいつも不満だったのは、そこでは、いつも国単位、もしくは思想単位の変遷で語られることが多くて、本当はその頃の人はどんな思いで暮らしていたのかが、おろそかにされていることだった。もちろん、それより前にエピソード本位の歴史書もないわけではなかったが、それはそれで生活感を無視した、奇矯に流れた奇譚集であったりする。この本の中でも繰り返し語られているとおり、王侯にしても農民にしても、いつも公的に過ごしていたわけではない。戦争と飢饉だけが彼らの暮らしだった訳ではない。それまでの歴史家が往々にして陥りがちだった公文書の解析による歴史の構築では、厄災、それだけが歴史の基調であったように見えるのはやむを得ないことだった。もちろんそれ以前の好事家的な歴史書のはまった、バラバラなエピソードの積み重ねによる統一感のない奇譚集からは、一歩進んだ科学的な手法には違いないけれども。
ここには、それぞれの社会構成員たちの残した非公式な資料を、丹念に公正に博捜し構築した、その時代の人々の優しい息づかいがある。過去の手法と公的資料から立ち上がる、紋切り型の歴史を頭だけで組上げただけの再構成とは、全く違った生きた歴史が目の前に見えてくる。そこで必要なのは、資料に対する独自な研究者の目なのだ。例えばこの本では、普通の歴史書では傍注でしかない、絵画や、詩作品が分析の対象に取り上げられて、当時の生き生きとした市民生活、宮廷生活を描き出し、そこに彼らの“遊びの心”を浮かび上がらせる。なれない堅苦しいこんな文こそ、もしかすると、ホイジンガの考えていた一五世紀ブルゴーニュの、厳しいけれど優しい中世最後の秋の彼らにはふさわしくないのかもしれない。
彼らにとっての公的生活であったはずの戦争や、宗教のなかに。彼の創造した記述法は、遠く離れた日本の歴史学にも大きな影響を与え、その成果は「生活の世界歴史」という河出書房の企画した歴史シリーズになって、その6巻目に堀米庸三編纂する「中世の森の中で」という魅力的な1冊になって結実したのだった。この本の名前は素天堂のお気に入り内田善美の佳品「時への航海誌」の書棚に、「夢の宇宙誌」とともに並べられていた魅惑の書名なのである。
結局、ヤン・ファン・アイクの聖画像や、ランブール兄弟の祈祷書ミニアチュール、泥棒詩人フランソワ・ヴィヨンの紡ぎ出す愛しい世界を享受することが、偉大なるアマチュアホイジンガの望むところなだろうと思う。残念ながら文庫本というメディアの性質上、イラストレーションが全く外されているが、大丈夫ほとんどの作品は、ネット上で再現できるのであるから。例えば、ヘラルト・ダヴィッドという画家の「ペルシャ王カンビセスの裁き」という作品がある(旧版下175p)。それはヘラルト・ダヴィット「カンビュセスの裁判」として以下のサイトで参照できるのだが、じつはこれ、黒死館階段廊にある三枚の絵のうちのもっとも凄惨な一枚「シサムネス皮剥死刑の図」なのである。つまり、ヨハン・ホイジンガ「中世の秋」は、立派な黒死館本だったのでありました。