よるの夢 うつし世は夢 (江戸川乱歩推理文庫)

新潮社のPR誌「波」の表紙に、作家たちの肉筆で作家たちの愛好する箴言や格言のようなものが掲載されていたことがある。いわば印刷された色紙の体なのだが、ほとんどがいわゆる文士の一家言でおもしろくもないものだったけれども、その中で、自分の趣味丸出しで足穂と乱歩の時はちょっと感激した。もう手元に残っていないからうろ覚えなのだが、足穂は確か「宇宙とははるかな郷愁である」だったとおもう。乱歩はあの有名な一句「うつし世はゆめ よるの夢こそまこと」だった。
小学校上級から大人の乱歩を読み始めていた素天堂にとって、「実人生なんかただの幻で、夜見る夢の方が自分の本当の姿」というその乱歩の言葉は、生涯にわたる指針として影響を受け続けてきたのだといってもいい。だから高校時代、アルバイト先の作業服のポケットに「モンテ・クリスト伯」を潜ませ、休憩に入るたびごとに1ページ、2ページと読み進んでいた頃から、素天堂の実人生軽視は始まっていたのかもしれない。勿論いわゆる“高等遊民”になれるような経済状態ではなかったから、いつだって仕事こそしていたものの、「これは本当の自分ではない」という思いを抱き続けてきた。それだけにいわゆる「本当の自分」を表に出すことはなく、だから、すべての読書上の趣味は、あくまでも「個人的な悪徳」でしかなかった。だからミステリやファンタジーの世界で遊ぶのも、人と連れだってということがなかった。
「よるの夢」というのは、すべての人にとって自分自身の中心にあるもので、それを曝すのは自分の裸を見られるより恥ずかしいと思っていたから、いつでも人知れず、読んだり、買ったりしていたものだった。だからこそ堅固に根強く収集しつつ、自らの周囲を繭のように、雑多にからみ合う書物で埋め尽くそうとしていたのかもしれない。その繭から今抜け出して、そこから一筋二筋と、モスグリーンの絹糸を紡いでいけるとするなら、この暮らしも捨てたものではない。久しぶりに文庫版・江戸川乱歩全集60「うつし世は夢 未刊随筆・戦後編」を手に取る機会があって、そんなことを考えた。