覚悟と言うこと 青柳いずみこ 青柳瑞穂の生涯―真贋のあわいに新潮社2000刊

著者の、いわば男らしいキレのよい文章のファンである。ピアニストつながりでいえば、「蛮族」のエッセイ・シリーズの著者中村紘子の文章も、性格は違うけれども、ジェンダーを越えた勁さがやっぱり好きだった。で、その人がグラック「アルゴールの城」や怪奇短編集「列車〇八一」の翻訳者として素天堂の大好きだった、青柳瑞穂と血縁関係にあるということを、どこかで聞きかじったか、読みかじっていたから、この本も凡百の追憶本の一冊であろうと思い込んでいた。勿論著者幼少期における、奇妙な同居生活の描写の中ではそれに近い部分もある。一人遊びの好きだったこのお転婆さんの、小学生時代の“ごっこ”のなんと素敵なことか。そして、徐々に彼女とその家での、祖父との微妙な関係が浮かび上がってくる。ここらへんの構成は見事で、短い文で晩年の瑞穂がくっきりと浮かんでくる。と同時に、なんでそんな生活にならざるをえなかったかという、疑問が読者の側に湧いてくる。
ここから祖父瑞穂の伝記に入ってくるのだが、その部分もはっきり醒めた眼で、しかも親族の利を生かした資料から、生き生きとした学生時代が伝わってくる。そこに登場する野尻清彦(大佛次郎)、奥野信太郎をはじめとする同級生達との交友は、大正初期の文学青年達の生態が描かれていて楽しくも、貴重な証言となっている。
しかし、瑞穂の結婚から、その視線は徐々に険しいものに変わってくる。彼の骨董狂いと家族との関係である。元々素養のあった骨董趣味だが、時間と、金銭的保護者の出現で、それに拍車がかかってくる。淫するといってもいい、彼の骨董狂いは、彼の持ち前の性格とからんで家族を蝕みはじめるのだ。さらに、忌まわしい戦争によって起きた生活上の問題に関しても、筆者の視線は容赦なくその祖父に向けられる。仕事(翻訳)はしたくないが、骨董だけを好きなだけいじっていたい。決して可能になるはずのない、高等遊民としての暮らしを続けようとする、意固地なまでの瑞穂の意思、さらにだからといって、生活、とくに自らの食生活に決して妥協を許さない彼の気持ちを、あくまで耐えて、彼の意思に逆らおうとしないその妻、祖母への冷めた眼もある。そこには、家族だからこそ見えている、嫌な面に対する容赦のない筆者の視線が感じられる。ある意味では普通の場合、そこで筆が鈍ってくるのが親族にありがちな評伝の通弊なのだ。
しかし、あとがきにある親族への謝辞にもあるとおり、筆者は、覚悟をもってあくまでも冷静に祖父達の過去に迫り続ける。それは、いつも間にか認識させられた彼との共通項を、整理し、清算しようとする筆者のきつい決意があってのことだろうと思われる。
近辺の文学者仲間の集う、「阿佐ヶ谷会」についても、筆者はあくまでも冷静に分析する。瑞穂と実際に交流のあった彼等が何故、彼の家に集ったのか、それに関しての筆者の捉え方は礼を失しない程度に、祖父の存在を突き放している。
そして、最初のカタストロフィーが出現する。やっと戦争が終わり、これからという時の祖母の急な死である。それについても、彼女の筆はヒステリックにはしらず、抑えた筆致が、却ってその祖母の心情に迫っている。ここで、初めて、彼女の家族と祖父との特殊な関係の始まり(最初の疑問)があかされる。
親子なら許せないことも、孫と子ならその関係を続けることも可能だというのは、一般的な家族でもよくあることだと思う、しかし、文学者としての祖父と早熟な文学好きであった孫娘という不思議な関係が、彼等同士にどんな交流があったのか。書斎への出入りを自由に許され、新しい掘り出し物が手に入ったときには、その窓から孫を誘って、晩酌の相伴をさせる。それについても、孫である筆者は決して祖父に媚びていない。

瑞穂が亡くなったのちも、彼が生きていたときと同じように、常に瑞穂の存在を意識しながら、わざとそのことに気づかないようなふりをして生きてきた私だが、ときどき、思いがけず、自分の中に瑞穂に似た感性をみいだして愕然とすることがあった。

最後に述べられた感懐が示しているように、そんな祖父の一生に対して向き合ったこの少女は、如何に甘やかされようとスポイルされることなく、自分の意志を持ち続け、書くべくして書かれたこの評伝は、筆致こそ生ぬるくはないけれども、祖父に対する素敵な手向けの花なのである。枇杷の木に登って庭を見渡す少女の眼差しは明るく澄んでいる。