国立近代美術館工芸館(近衛師団司令部)の思い出

宗男議員さまのアルバムを拝見して、また書き込もうと思ったのですが、人様の日記へのコメントとしては長くなりそうなので、こちらにupすることに。
自分の古い友人に当時やっと意識されはじめた“近代建築”の保存を記録しようという男がおりました。今も健在で、現在はその作業は中断しておりますが、相当の熱意をこめて資料集めを素天堂と競い、自分の本領であるカメラ機材にもこっておりました。彼は写真をやっていた関係で、どうすごいのか素天堂にはわかりませんが、ハッセルブラッドの8×10というカメラを武器にしておりました。なにしろそのカメラを持っていると、守衛がガードを固めている非公開の施設の写真も、思うさま取りに行けると豪語しておりましたが、その通りであることを、確認したことがあったのです。
秋も深まりつつある70年代の初頭。当時、取り壊しのうわさの高かった、その建築趾(当時はこの言葉通りでした)を、形のあるうちに、たとえ、映像だけでも残しておきたいと思い立ったのであります。その意気やよしとすべきですが、当時はその周辺は閉鎖され一般人は写真撮影どころか、見ることさえできないのが状況でした。彼は助手を仰せつかった素天堂共々、当時使用していた、フォルクスワーゲンのワゴン(その頃はワンボックス・タイプといえばこれしかなかったので、野外撮影のカメラマンには必須のアイテムだったらしいです)に機材を積み込み、夕暮れ近くに出発しました。
場所は皇居北の丸、旧近衛師団司令部趾です。今でこそ出入り自由ですが、その頃、その英姿をかいま見ようと思ったら、首都高環状線を北の丸トンネルにはいる一瞬しかありませんでした。そこで彼は“首都高”から、その撮影現場に入ることを決めたのです。今なら考えることもできませんが、車を夕方の首都高の路肩に駐車させて、撮影対象にフェンスを越えて突入したのです。当然ですが、取り壊しを予定されているわけですから、外観も勿論、内部も全く荒廃していました。とにかく足の踏み場もない、生い茂って枯れかけたススキを、踏み分けながらの撮影は、予想外に時間がかかって薄暮に始めた作業はすでに夜にかかってしまいました。その時に懐中電灯でのぞいた、東翼側のガラス窓越しの内部は、生々しく軍靴のひびきが聞こえてきそうで、鬼気迫るものがありました。
そんな、撮影に夢中になっていた我々に、後から声をかけてくる人がいたのです。首都高パトロールのお巡りさん達でした。まだ、七〇年安保の後遺で過激派の活動もまだまだ活発だった頃ですから、当然皇居周辺の警備も厳重だったのでしょう。現に七四年には、三菱重工ビルで過激派の仕掛けた爆発物が爆発するという日本では未曾有の事件が発生する前後だったはずですから。路肩に駐車された“不審な”オンボロ車といえば、当然官憲の方々も神経を尖らせるはずです。しかも場所は皇居脇、しかも旧軍の中枢ともいえる、近衛師団の付近をうごめくものがいれば、厳しい詮索がまっている筈でした。
自ら招いたとはいえ、その窮境を救ってくれたのは、カメラマン氏の愛機、ハッセルブラッドだったのです。いかにも怪しい二〇代前半、長髪の連中がしょっ引かれもせずにすんだのは、一に、そのおかげでした。「なくなりつつある近代の遺産を映像で残す」という大義名分をそれくらい確実に、実証してくれるものはありませんでした。
で、今フッと考えてたのですが、もし、自分たちが本当に過激派で、あの、カメラの筐体に爆発物を仕込んでいたら、あのお巡りさん達は、あとで大変だったろうなあ。
そんな苦労をした近衛師団司令部だったのですが、その後、できた写真を見せてもらった記憶がありません。たぶん、苦労に比して、それほどの作品に仕上がらなかったのでしょう。
保存が決まったのはそのドタバタのすぐ後でしたが、実際に自分がそこを訪れたのは、結構あとになってからでした。もちろん、曇ったガラス越しにのぞいた、あのイメージはもうどこにもなく、美しく補修された外観以外はただの現代建築になっていました。