二冊の“重い”本(1)  尾島庄太郎「英吉利文學と詩的想像」北星堂書店 高橋義孝「ファウスト集注」郁文堂

sutendo2006-02-23

昨年の五月以来更新の滞っていた“辞典”の更新を、絹太氏に手伝ってもらって、やっと完了させたのだが、その時の作業の合間に表記の二冊を検索してみた。店頭では見かけないか、比較的高価になって買いにくくなっているものだ。こんな本があったらなあ、といっても実際は再入手がほとんどで、名前だけ知っている探求本なんていうのはこの年になってみるとそんなに無いものだし、感動もうすいはずなのだが、この二冊は本当にうれしかった。
最近は仕事の関係もあって、近所の本屋さんの店頭の均一本コーナー以外は、ヤフオクと、Google検索が素天堂の買い入れ窓口になってしまった。長い間、買っては処分する繰り返しの中で、もう一度手に取りたい本、印象に残っている本をつれづれに探してみるという遊びにはまっている。卑近の例だが、ピーター・アクロイドの初期作品「チャタトン偽書」なども検索してみると、なんと、雪樹さんがレビューを書いてくれていたりする。前に、お薦めした本なのですごくうれしかったりする。
余談はさておき、黒死館の辞典作成も考えていない十代の頃、宮益坂上の「正進堂」で巡り会ったのが一冊目「英吉利文學と詩的想像」だった。虫太郎と取っ組み合ってやっと読み進んでいた頃、“ケルトルネサンス”や“ミュイヤダッチ・クロス”の呪縛に取り憑かれはじめた頃、だった。文字通りダストカヴァーというにふさわしい、禁欲的な北星堂特有の白っぽい地味な紙に包まれて、扉にも使われているアーサー王とライオンの古版画が、魅力的だった。ガッチリしたバクラム装(あの大乱歩も憧れて「探偵小説四十年」に使用したという)の、いかにも書籍という風格がうれしかったものだ。
再入手がいくらうれしいからといって、中身も確認せずに印象を書くわけにもいかないので、ちらりと読み返してみたのだが、今だからこそこの本の意味がわかるような気がする。その頃は、内容より、まず言葉だった。さらにいえば語彙でしかなったから黒死館の本文とつながっていなければ読み飛ばしていたはずだ。それでも尾島の序文でいうところの、ケルト人の持つ文学的“天分”や“稟質”に、無意識に引き込まれていたのだろう。だからこそ、黒死館の資料といいつつ読めもしないピゴット「ドルイド」を始めとするペリカン・ブックスやテームズ・アンド・ハドスンの美術シリーズで関係書を探したりしたのだった。
この本に戻ろう。たしかに、一つ一つの語彙にこそ関わりはなくとも、虫太郎が引き込まれた“ケルト的幻想”に思いを寄せる著者の熱情はほんの短い序文でも、うかがい知ることができるし、

眼にみゆる事物を限りあるもの、とらへがたなきあだし幻とのみ觀ずるは、宇宙乃至地上のあらゆる事物の有する組成や富やに深く心を向けぬが為であらう。

第二章冒頭におけるブレーク論の劈頭を飾る美文こそ、この本の核なのかもしれない。
この本の書名や、章立てのどこにもアイルランドの文字は出てきはしない。表題のとおり、あくまでもイギリス文学の中におけるケルトの影響を分析し、展開している。しかし、読み進んでいけば、著者のケルト民族という、他のどこにも存在することのできない夢見る民族の稟質に対する、書いても書いても書き足りない愛情が充ち満ちているのを読みとることができるのだ。
後半にいたって、鶴岡真弓井村君江もいない、高宮利行もいない、ましてや、巖谷國士もいないこの一九五〇年代に、この本の中でのみアーサー王と円卓の騎士、英雄クーフーリンや神秘僧ドルイドの、そして遍歴の騎士の求める聖杯伝説が繰り広げられているのだった。今でこそ枚挙にいとまのない、これらの事柄については、わずかな児童文学における例外を除いて、実際、英語でさえ探すのが難しい時代で、例えば、英米神話伝説辞典と銘打ちながら、そこにある九十九パーセントはギリシャローマ神話で、残る一パーセントに辛うじて、北欧神話が挙げられる、そんなていたらくだったのだ。そこには、アングロサクソンにおけるケルト嫌悪の情さえ感じられる。
だからかもしれない、著者がいう、

ケルト民族は、既に亡びたのでもなく、また亡びつつあるのでもない。ケルト民族は、世界の歴史上、嚴然として廣く根強く生存を續けてゐる。

という静かな叫びこそ、虐げられ、押さえつけられ続けたケルト人たち、ひいては現代に息づくアイルランドのひとびとへの愛の、迸るこころだったにちがいない。