二冊の“重い”本(2)  尾島庄太郎「英吉利文學と詩的想像」北星堂書店 高橋義孝「ファウスト集注―ゲーテ『ファウスト』第一部・第二部注解」郁文堂

ハリー クラーク

「英吉利文學と詩的想像」のことを書いていたら、なんだかケルトがらみの、辞典制作初期の思い出などがうかんできたのだけれども、この二冊目の“重い”本のことを書くまでは、と自粛。
大判画集や辞書の類をのぞけば、同じ版形で重いだけなら、例えばウイットコウアーの「数奇な芸術家たち」や中川芳太郎「欧羅巴文學を併せ觀たる英文學史」などというのが手元に残されているが、それらを越えて何故この本達が重いのかといえば、素天堂にとって、テーマと成立過程だったといえるだろう。前回の尾島の本は、辞典作成作業の最初期の頃だったが、この「ファウスト集注」は、作業が一段落したころだったから、ある意味この本からは(現状では)特に恩恵を受けた訳ではない。ドイツ語がわかるわけでもなく、「ファウスト」の全編を通読したわけでもない素天堂にとってこの本は、結局、宝の持ち腐れでしかないのだが、ではなぜ重いのかといえば、この本が、単なる“注釈”ではなく、古風に“集注(しっちゅう)”と名付けられた理由にこそあるのだ。本来、集注とは漢文学、古文章に対する累代の注釈を集大成したものであって、素天堂でさえ知っている有名なものの一つに「楚辞集注」がある。ここでは、古文章ではなく、ゲーテの「ファウスト」に関する一九世紀から二〇世紀半ばまでの主要な刊本から取捨選択した語彙に関する注釈が、オカルティズムから古文法にいたるまでが集成されている。もしかすると、後続の研究者にとっては、これ一冊あれば“便利”な参考書なのかも知れないけれども、それだけだろうか。一語一語の語釈のために、それ以前のすべての参考書の殆どを、あたまから最後まで参照しなおさなければならいなどということは、(だれにとっても)注釈作業の基本なのかも知れないが、やってみれば何よりそれがきつい作業かわかるのだ。だからこそ高橋はこの仕事に対して“古風に”集注と名付けたのである。この自負こそ掬すべきものであろう。文字通り蛍雪の中で行われたこの作業に対して、その経緯を述べた僅か二ページの跋文の最後に記された、

わたくしはこの半世紀を記念して、本書と本書とほぼ時を同じうして他の出版社*ファウスト(二) (新潮文庫)から刊行される単行本「ファウスト」翻訳とを一対のオベリスクに見立てて、これを私のちいさな Jardin Épicure の一隅に建てて置くことにする。

多分著者にとっても重いこの本は、初版発行後二〇年の後に再刊されるという、こういう内容の本にとっては幸せな境涯になったが、それも、この本に含まれた原著に対する深甚な厚意が、単なる参考書としての存在を越えさせて、注釈自体が古典たりうるということの証明のような気がする。
神保町の町歩きで見つけたこの本は、当時でも躊躇するくらい高いものだったけれど、メモを取りながら読みふけったあの頃のことを考えると、注釈というものの重さを、もしかするとこの本から受けとっていたのかも知れない。そうだ、そういえば、この本もバクラム装なのである。