ヴァスラフ -翔ぶ器械-

ヴァスラフ 
いまでは、だれも彼の翔ぶところを見たこともないのに、かれはその伝説の中で永遠に翔び続ける。
だから、作者はかれの躯を、究極のイメージとして三次元のヴァーチャル空間、さらに彼を思うすべての人の脳髄の中に閉じこめようとする。そうしなければ、どれだけの画像として、どれだけの証言として残されたとしてもかれの飛翔は、少しづつ霞みながら、だれの心の中からも結局は消えていってしまうからだ。
かれの愛人でもあった、かれのプロデューサーは、かれの翔ぶ姿を記録に残すことをしなかった。当然であろう。その頃の未発達の映像メディアの中でかれの存在をいかに“残せないか”を、わかっていたのに違いないから。だったら、その頃にコンピュータという存在があって、そのソフトとして、かれの飛翔を記録できればというところからこの作品は始まって、終わる。
仮想空間におかれた、意志を持たない立体イメージとしてのかれは、プログラミングされた存在としてコマンドの打ち込みでしか活動できないはずなのだが、あまりにも完全なヴァーチャル・イメージとして組みあげられたために、コミュニケーション不在の一方的な意思が、かれの中に立ち上がってしまう。ソフトの暴走でしかないはずの「ヴァスラフ」の行動は、かれに対する愛情からだろうが、踊っていないときでさえも作者によって、ぎこちなくも、美しく描かれ続ける。

踊る器械、翔ぶ器械であるかれは、踊っていなければ彼は他の存在と関わることができないのに、かれはそれを苦痛に思う様子もなく、他の存在を狂わせ続ける。自覚のないかれにはそれは悲劇でも何でもないけれど、彼と関わってしまった“ユーザー”たちはあたかもかれの中に取り込まれるように、かれの完璧さ故に自分の中の何かを狂わせてしまう。フォーキンのダンサー・コレオグラファーとしての嫉妬、皇女の発狂、枢密秘書官のあり得ない恋慕、彼を創造?したはずのプログラマーも、自分の存在自体の混濁の中で発狂する。
スラブ風ロマノフ朝スチーム・パンクとしての、王朝末期の威信をかけたプロジェクトとしての「ヴァスラフ」は、最後に存在の危険を悟った皇帝自身によって、そのシステムを完膚無きまでに破壊されつくすが、かれはネットの中で自分のダンスを永遠に踊り続ければならない。なぜならかれはバレエの仮想煉獄の中で未来永劫、数多のハッカーたちからその美しく完璧な跳躍によって逃げ続けるべくプログラミングされているのだから。

ヴァスラフだけはいつも、ただ一人、サイバー・スペースに取り残される。ヴァスラフには退場は許されないのである。

最後に映画「ニジンスキー」の話を。
あの作品自体は、確かに表面的な伝記映画に過ぎなかった(だから、いいと思うのだが)けれど、最後の拘束衣を着せられ、閉じこめられ、どこも見ていないニジンスキーとしてのホルヘ・デラ・ペーニャの表情に重なって最後まで流され続ける、意味の無いとしか思えないあの微かな何色もの光芒(多分モーション・キャプチャーによるダンス映像だと思うのだが)が、なぜか、踊り続けなければならいダンサーの業を感じさせて、あのシーンだけがかれの内面に入り込んでいたような気がしたものだった。