ファイロ・ヴァンス告発ヵ!   グレイシー・アレン殺人事件 (創元推理文庫 103-11)

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最晩年、しかも映画とのタイアップで書かれた作品とあって、評価も芳しくない(素天堂も巻末のファイロ・ヴァンス伝がついていなければ買っていなかったかもしれない)が、この機会に読んでみて、じつは不思議な魅力に引き込まれた。
グレイシー・アレンというコメディー女優は、検索で見る限りアメリカでは現在でもDVDの作品集が出ているくらいの存在なのだから、当時タイトルロールで原作を書けるというのは、思ったほどみすぼらしいことではないらしい。発端のヴァンスとグレーシーの出会いでのけたたましいばかりの台詞扱いなどは、多分ラジオコメディアンとしての彼女の芸風なのだろう。
その流れでいえば、終末での、彼女のファイロ・ヴァンス告発もヴァン・ダイン自身による自己パロディーの茶番劇だと思えてくる。つまり、これはヴァンスにおける「自分の事件」ではないのだ。そうやって考えれば、初期の数作に比べればその差は歴然としているにしても、まあ一般的には通俗的探偵小説としては水準作ではないだろうか。或る意味、彼自身の二十則(もしくはノックスの十戒)を彼自身が幾つも破っているのさえ、ご愛敬である。
そんな作品の中に、全体のコメディータッチとは妙に異質ながら、心惹かれるのが終末近くの十四章「瀕死の狂人」におけるオウエンとヴァンスの対話である。
「精神の唯一の価値は、精神なんか、無用であることを、われわれに教えるときに、はじめて達成される」 創元版175p
この不思議なギャングの頭目の発するニヒリズムは、遙かさかのぼる「僧正」における、あの人物の、超人思想のようなものの深化したかたちだと思うのだ。それに対して、敢えて“狂人”あまつさえ“瀕死の”と形容せざるをえなかった探偵作家ヴァン・ダインの心境は察するにあまりあろう。この作品が発表された1938年といえば、翌年のパリ占領、第二次世界大戦の勃発を目前にした超人思想の奇形、ナチスドイツ躍進のときであり、 'What Nietzsche Taught' の著書もある、アメリカ人のニーチェ信奉者でもあった“ウィラード・ハンティントン・ライト”にとっては、想像を絶する絶望的な時期だったのかもしれない。だからこそ、ここでのヴァンスの発言自体が“狂人”オウエンとほとんど同じくらい、終末の空虚感に包まれているのだ。
いみじくも、創元版の巻頭で「禅問答」と評される、この10ページに渉る奇妙な章は、探偵作家ヴァン・ダインの裏にひそんだW.H.ライト氏の「白鳥の唄」だったのかもしれないのだ。