遠く遙かなこだま、 として  僧正の積木唄

勿論この作品を読むのに、「僧正」も「本陣」も読んでいる必要はない、まして「Yの悲劇」はなおさらだ。知識としては金田一の行動や、ファイロ・ヴァンスのあれこれに対する知識は、ある程度あってもいいかもしれないが、それがなくても、独立作品として楽しめる最良のパスティーシュ。勿論、それぞれの原作を読んでいれば、そのおもしろさは数十倍に膨らむ。なにしろあの作品の、あの人がじつは××という、書きたくても書けない大ネタが仕込まれているのだから。そのうえ、鼻持ちならない衒いに包まれていたようにしか見えなかった、あの、ヴァンス=ヴァン・ダインにもこんな苦悩があったのか、というのを、この前書いた「グレイシー・アレン」でのヴァンスとオウエンの会話で紹介したものだが、この作品ではもっと具体的に、或る意味残酷に、探偵自身によって語らせている。
ヴァン・ダインが惑溺し、アメリカでのその再現を試みたと思われる“黄金時代の英国探偵小説”という存在自体が、騎士道としての白兵戦というルールが存在した時代のものであって、「第一次世界大戦」という、大型兵器による無差別殺戮という現実に直面してしまった一九三〇年代後半には、時代遅れになりつつあったのではないか。作者いうところの“戦争というモンスター〔怪物〕”の登場である。さらに作者は、登場人物のひとりの口を借りて「それまでだったら致命的であったはずの大怪我を負っても兵士たちは生きながらえることができた。要するに欧州戦線では生者と死者とが混在していた」。その実例として、ミステリでいえば、乱歩の「芋虫 (角川文庫)」だろうし、映画でいえばドルトン・トランボの一世一代の名作「ジョニーは戦場へ行った [DVD]にとどめを刺すだろう。
 
時代は下がるけれど、チャプリンの戦後(ナチによるジェノサイドが発覚したあと)における奇形的傑作「殺人狂時代 コレクターズ・エディション [DVD]」で語られる「一人を殺せば殺人犯だが、百万人殺せば英雄(うろ覚え)」という決めぜりふの通り、殺人という行為の変貌は、大戦間の当時にしてももう既にヴァン・ダインの二十則などという、フェア・プレイそのものの存在を許さなくなってしまっていたのだ。さらにこの作品でも登場するとおり、FBIに代表される、捜査機構の拡充も、いわゆる素人の介入を許さなくなってしまうのだ。そんな時代に“見立て殺人”の解明というような大時代的な物語を設定するには…… その答えがこの作品なのではないか。冒頭に登場する正体不明の“コンチネンタル探偵社のオペレーター”は、この作品が展開する殺人ゲームに関しては、あくまで傍観者に過ぎない(なにしろ、裁判所の召喚にさえ応じないのだ)、彼等には解くべき別の《新しい》謎が存在するのだろう。
登場人物たちの手のひらの中で、まるで、オモチャのように扱われ続けたE=mc2のモンスター〔怪物〕は、金田一によって解決?したはずの、この小さな事件のずっとあと、遠い極東の上空に忽然とその恐ろしい姿を現し、それらのすべてを蹂躙して行くのである。
ニューヨークという町の、さらに小さなリトル・トーキョーという小さな小さな世界で起きた事件を描きながら、ここでは、アメリカ本国における、ヴァン・ダイン作品の評価の凋落と、日本での高評価の継続という後の時代の流れを作中にほのめかし、なおかつ、日系人=有色人種に対する謂われなき差別(さらに被差別者同志間の再差別−これがある意味この作品の重要な要素になる)と迫害、という、当時における日米間の問題をテーマに据え、その後に迫る「第二次世界大戦」という地獄を視野に入れた壮大な時代ミステリが構築されているのだ。
夜の闇に紛れて消えていったあの鳩たち、アーカンソーの野阿さんにむけて、毎朝飛ばされ続けたあの鳩たちは、一体どこの空へ消えていってしまったのだろうか。
ジョニーは戦場へ行った [DVD] 殺人狂時代 コレクターズ・エディション [DVD]