夕まぐれの散歩から 「深夜の散歩―ミステリの愉しみ (講談社文庫)」へ

二人して煮詰まりかけた日曜日の夕方。久しぶりにそこいら辺を歩きたくなって、絹太氏に声をかけて表へ出た。家の前はいつでも曇り空みたいに日差しの少ない狭い路地なのだけれど、一歩外へ出ると、大きな公園と運河があるので南西に向かって思い切り大きな空がある。川沿いの道に出ると、空は風にちぎられた細長い雲が空をまばらに埋めて、その雲には一個一個に夕日が紅く色づいている。紫とも紺とも言えない薄ぼけた空の色を背景に、空中を朱彩色のレリーフのようにそんな雲が鏤められていた。どうせ、行く当てもなく出てきたのだし、X型に交差する橋の上で、そんな雲の表情を眺めながら、普段通らない道へ入ってみる。古い貨物線の陸橋の橋桁など眺めながら大通りにでた。疲れたわけでもないけれど、道沿いのドーナツショップで、お茶をして家に帰った。そんなものなのだが、身体のしこりが少しとんだようだった。

そんなつながりでもないのだけれど、緊張しつづけの読書態度を解すつもりもあって、思い立って、読書用に講談社版「決定版 深夜の散歩」をもってでた。ハヤカワ・ライブラリの頃からの愛読書、というより、ミステリに対する姿勢を教わった本だったので。読み返して、忘れかけた余裕と遊び心を取り戻せたら、などと考えていたのだけれど、福永武彦の「深夜の散歩」にしても中村真一郎の「バック・シート」にしても、高校時代の恩師に、やんわりと、現在の心得違いを諭されたような感じがして、嬉しいようなこまったような、何とも奇妙な感じだった。
福永の「純粋遊戯としてのミステリ読書論」もだったけれど、中村の「幅広いジャンルへの偏見のない読書論」は自分にとってどれだけ体の中の芯まで染みついていたのかを、思い知らされて愕然とした。この作品と、「火の娘」をはじめとするいくつかの翻訳にしかふれていない素天堂ではあるけれど、この作家にどれだけ恩恵を受けていたのか気がつかされたのであった。
だって、つい先週末、思い立って例の探偵作家と同時代ということもあって「贋金づくり」を読み返した後だったから。しかも、この版(ハードカヴァー版)で追加収録された 集英社版「20世紀の文学 世界文学全集〈あのボルヘスもグラックも初収録された名全集〉」の探偵小説(この当時の用語では推理小説)編への解説「スープの中の蠅」は、当時収録された作品〈クリスティー、アンブラーは既読、J.M.ケインには興味がなかった〉の所為もあって初読だったので、自分の読書法がじつは中村の掌の上で宇宙を飛び回ったつもりの孫悟空にすぎなかったこと←〈これでも自分を褒めすぎ〉を思い知らされて愕然としたのであります。でも、いい加減な牛歩ではあっても、方向はあっているようなのでちょっと安心したりしているのです。
深夜の散歩―ミステリの愉しみ (ハヤカワ文庫JA)こっちの画像は早川版