なんと呼ばれようと薔薇は薔薇薔薇なのか? bibliotheca puhipuhi Nr.6 から

最新刊「発狂した仕立屋 その他の抜粋」は、じつは素天堂などの手に余る高度な評論集なので、一瞥してプヒプヒさんに敬意を表して、神棚に納めるはずだった。
冒頭の「発狂した仕立屋」の数学論に煙に巻かれ、サイバネティクスについての「第六対話」の先見性に驚くのが精一杯だった。著者による正誤表も照らし合わせてみたけれど、素天堂にはあってもなくても同じでしかないていたらく。唯一、快哉と共感が巻き起こったのが『偶然の哲学Ⅱ』からの抜粋「『薔薇の名前』をめぐって」だった。
この本の名前は、原書発表の翌年、『日本読書新聞』の「1980年における収穫」のようなアンケートで篠田一士のコメントで知った。ヨーロッパではこんな高度なミステリがベストセラーになっているというような内容だったと思う。日本で最初のボルヘス紹介者らしい幅広い経験のなかでの選択で、うらやましかったものだが、数年を経ずして、東京創元社著作権を取得したと聞いた。そのうちに映画の制作は始まるし、演劇関係の某社からは膨大な周辺本が発表されるはで、その評価は、翻訳がでてもいないのに高まるばかりだった。映画さえ翻訳本の出版前に公開されてしまった。
そのプログラム執筆のラインナップは、中井英夫を筆頭に、荒俣宏高山宏海野弘とまるで『ユリイカ』と間違える顔ぶれで、この作品について語れる最初の機会を喜んでいるかのような絶賛の嵐だった。特に巻頭の、「私にとって最後の映画、これぞ見納めにしてしても悔いのない映画だ」とまで言い切った、中井の感想が忘れられない。素天堂にとっても、中世の書写室に始まる修道院の描写や、まるでピラネージの迷宮のような書籍保管庫は、その炎上シーンの衝撃と相俟って原作の評価とは別に、捨てがたい映画作品のひとつであった。
 公開時プログラム表紙
それはさておき、「口ばかり達者で能無しな大衆文化が広めた嘘」とか、「無気力な間抜けという多数読者」など、まず小気味のいい悪口雑言から始まるこのエッセイは、十分に『薔薇の名前』のエンターテイメント性を閲しつつ、L氏自身の未来に対する百科全書派としての自負を、エーコの作風の過去に対する傾向と対比させながら、大きく幅広い歴史認識の展望へと進んでゆくのがおもしろかった。さらに、開明的な合理主義者ウィリアムと頑迷な全体主義者ホルヘの対比からの結論は、〈集積された〉書物の持つ、厳密な保守性が結果的に未来の構築へとつながるという、奇妙な二律背反性の指摘として見られないだろうか。http://d.hatena.ne.jp/sutendo/20060524
L氏が作品の背景となる前提と、大衆文化としての販売戦略、その、絶妙の絡みあわせ(それに勿論ミステリとしての完成度も含めて)に対して、「一人の人間が、ただ一度しか成しえない発明」という最高の讃辞をこの作品にあたえているのは実に共感できた。そして、それはもしかして、読者が『ソラリス』の著者であり『泰平ヨン』の作家である、L氏自身の作品に対して持つにちがいない感想なのではないだろうか。