シニョール・ジョヴァンニ (創元推理文庫 (215‐1))の表の顔

sutendo2006-12-16

イタリアの長靴の付け根、アドリア海に面した港町、オーストリア・ハンガリー帝国唯一の海への出口トリエステ。その陰謀と術策渦巻く町のホテルで、一人の男が死んだ。人品卑しからぬその男は、首に絞められた綱の跡を残し、体中を滅多刺しにされていた。シニョール・ジョヴァンニと名乗ってはいるがどう見てもイタリア人ではない。隣室の泊まり客と奇妙な数日を過ごしたあげく、〈刺された本人は金銭沙汰だというのだが〉その相手に殺された。警察の尋問にも自らの名前を告げることなく死んでいった、被害者の旅券にはローマ法王庁の「古美術担当長官」である人の名前が書かれていた。一七六八年六月だった。
 その人物の名はヨーハン・ヨハネス・ヴィンケルマン。ドイツの靴職人の子に生まれ、本人の執念に等しい向学心と、文字通り、刻苦勉励のすえに辿りついた美術関係の学者としての最高峰であった。彼は近代的美術史と古典美学研究の創始者であり、以後の考古的美術史は彼の業績を無視しては語れないだろう。一七五五年発表された処女作は古代ギリシャ美術に関する、小論文とはいえ、まったく新しい視点の、古典美の布教者として、地元ドレスデンで大ブームとなった。
『希臘藝術模倣論"Gedanken uber die Nachahmung der Griechischen Werke in der Malerei und Bildhauer-Kunst"』と訳題されたその本は、昭和十八年太平洋戦争真っ盛りの時期に、当時としては破格の豪華本だった。訳者は後に古代美術、美学史の第一人者となる澤柳大五郎の処女出版。本来は岩波文庫のために訳されたものだが、五十ページを超す注と図版(アート紙別刷モノクロ三十二葉)、六十四ページにおよぶ解説という分量で菊判の大型本として、座右寶刊行會から刊行された。

訳者渾身の解説は、ヴィンケルマンの出生から同書刊行までの足跡、交友等を拾出したもので、その超人的な努力と執念を愛情を以て書出した、いわばヴィンケルマンに於ける〈正史〉なのである。成り上がりを目指すヴィンケルマンの狙いや、彼の美学的限界までもを、余すところなく精確に描きながら、澤柳の解説は〈やさしく〉こう終わる。

伊太利亜は眼の前に開かれた。ここからあの暗い慘めな前半生に引きかへて、明るい輝かしい後半生が始まるのである。

古代美術の専門家として大成し、ローマで(=世界で)、学者として最高の地位にまで登り詰め、華やかな後半生を送れるまでになったヴィンケルマンだった。そんな彼がなにゆえ、女帝マリア・テレジアとの謁見というさらに事績に華を添える行程の帰途、港町で足を止め、その生涯を悲惨な形で終えなければならなかったかを、ドミニク・フェルナンデスが軽やかな会話体で突き止めてゆく。〈輝かしい〉業績で彩られてきた後半生が、彼自身の奇妙な行動で閉じられなければならず、うさんくさい〈シニョール・ジョヴァンニ〉を息を引き取るまで手放さないで、研究対象だったギリシャ美術の明るい開放感とは裏腹の、不名誉な死へ向かわなければならなかった暗い道程とはなんだったのか。
この肖像に秘められた、ヴィンケルマンの心を解き明かすというこの百ページにみたないこの小品は、〈戦闘的同性愛者〉と呼ばれるフェルナンデスが、海岸で犬死にしなければならなかった、パゾリーニをテーマにした大著『天使の手のなかで』と平行して進めたという、それに対する〈昇華しきれない暗い情念〉に関する自注だったのだ。