光学的行為Ⅱ / 錯視

最近立て続けに、恵比寿ガーデンプレイスに出没している。勿論こじゃれたショップや、こぎれいな食事処に用はないから、都写真美術館に行く。昨年末は「コラージュとフォトモンタージュ展」写真術・最初期の焼き込みによる画調の調整から、実際の〈毛抜き〉作業による部分差し替え、さらに二十世紀初頭からのプリントの切り張りによるコラージュまで、写真の可能性を広げた写真のマジックを堪能した。なにより嬉しかったのは大阪の前衛作家花輪銀吾のオブジェ「複雑なる想像」の実物であった。その後目黒に下る坂道の途中のトンカツやさんの串カツも堪能したけれども。
で、今回もKくんのお誘いで「球体二元論 細江英公の世界」を見る。「薔薇刑」、「抱擁」からの彼の世界を俯瞰するのは否応ないのだけれども、ついでに「光と影」の展示もみたいとねだって、そっちのチケットも手に入れてもらった。友人の家で見た覚えはあったが「薔薇刑」が、バロック固執した手法と表現だったのかと驚いた。当然かもしれない、あの頃の素天堂に、バロックマニエリスムもあったもんじゃなかったし、有名な作家が撮ったセンセーショナルな写真集としてしか見ていなかったろうから。
まだ早かったせいで最終日にも拘わらずゆっくりと鑑賞して「光と影」のフロアに移動。今回も、最初期の英国の写真家フェリックス・タルボットから、福原兄弟、マン・レイ瑛九を経て、森山大道がハイキーに固執した荒い画面でブレイクする前の作品群まで、写真に於ける光と影の俯瞰的展示をゆっくりと堪能したのだが、最後の部屋でそれまでの、生意気な、そうそうソーなんだよね的な感想を吹っ飛ばすとんでもない作品が待っていた。黒に近いモノクロのグラデーションが禍々しい、奇妙なプリント不思議な平面をかこむ木彫りの枠、のようなもの。それが全紙大に焼き付けられて五点ほど並ぶ。タイトルには原文で泰西名画オールドマスターの名と、絵の題名、フェルメール「窓辺で手紙を読む少女」カラバッジョ「病めるバッカス」がある。しかし画面は見本の通り。僅かに目を凝らして見えるのはほのかなグラデーションによる原画のタッチ。絵はどこだ。いつも見ているあの色彩、あの名画の画像はどこにもない。モノクロ自然光で取り込んだ画面は、純粋オブジェとしてのタブローのものそのものを、画家の筆遣い、表面のニスのひび割れのみを、我々に突きつけてくる。
画像は「光と影」展チラシから
絵を見るという行為は、光学的行為とはいいながら、見たことのある記憶と色を搗き交ぜながら、自分の中で造っているに過ぎない、「あんたは本当に今まで、絵を見てきたのか」。この小野裕次の作品は、もう一回絵そのものを考える機会を与えてくれた。