荷物は私がお持ちしましょう

sutendo2007-01-28

 引き裂かれた神の代理人―教皇正統記
ここで描かれている中世末期欧州での対立教皇(法王)による教会分裂などという事件は、高校時代の世界史でせいぜい一時限のエピソードでしかなかった。非キリスト教徒には、なぜか高潔なイメージの強いカトリックの歴史の中での、小さな傷でしかなかったように思う。そんな高校生クラスの常識を覆すのがこの作品だった。
ローマとの抗争に敗れ、歴史から消されたアヴィニヨン側に、歴史の表から隠された後継者がいたというのが、この物語だ。ローマの熾烈を極める捜索を逃れるために、すべての公的なコミュニケーションを絶ち、僅かに残された記憶による典礼と神への忠誠のみを頼りに、山中で羊飼い(神の牧者!)を主な生業としつつ、六百年に渡ってもう一つの教皇の伝統を守り続ける人々の最後の一人。物語は、中世におけるアヴィニヨン側最後の教皇の戦いと、その現代での最後の後継者の最後の遍歴と、ローマ側の現代での捜索とが、交互に語られて進行する。
中世での、凄絶を極める政治的、軍事的包囲網によって絡め取られるアヴィニヨン教皇の最後の戦いも、自らの正当性を譲らず、強烈だ。ローマからの歴史的改竄によって隠されたフランスを中心とするガリア・キリスト教、それはここでは描かれていないがキリスト教の始源に関わる問題かも知れないのだ。初期におけるケルト民族によるヨーロッパ布教への貢献は、ローマにとって掌に刺さった棘のような存在だったから、アヴィニヨンを支えた僅かな勢力のほとんどがケルト系の地域だったのは象徴的だ。
カトリックといえば、ローマが本山と刷り込まれている自分にとって、書き出しのローマの光景とフランス、アヴィニヨンのあからさまな対比に、作者の〈フランス中華思想〉を感じて鼻白む思いがした。その作者の姿勢は終わりまで変わることはないが、ローマから追われた仲間達の行う、ガリアの森の中や、忘れられた廃墟の中での典礼は、もうひとつのカトリックの細い流れを象徴して、悲しく、感動的だ。
僅かな個人にのしかかる〈教皇の玉璽(原題)〉に象徴される伝統を、六百年に渡って守り続ける行為の重さと、肉体的な衰えの相乗で、ともすれば挫けそうになる精神を支える、信仰という行為の高貴さ。行程の中途での小さな奇跡を含め(そのエピソードは魅力的だった)、ギリギリまで持ち続けた、それに対する若いローマ教皇庁の職員の言葉

「ブノワさん、荷物は私がお持ちしましょう」

は、老人の背負った背嚢についての言葉だったかも知れないが、結果的にアヴィニヨン最後の生存者と、ローマ教会との和解の言葉になったのだろう。すべての重荷を若い職員に預けることのできた〈生き残ったアヴィニヨン教皇〉は、最後のローマへの道行きの中途、今では閉鎖同然の田舎の聖堂で、その過去のすべてを委ねて事切れる。その一言で、彼にやっと和解と安息の日が巡ってきたのだ。
凡て勞する者、重荷を負う者、我に來たれ、我汝らを休ません。(マタイ傳11.28)
彼の望んだ強い希望は、ローマからの若い職員と彼らにとっての対立法王庁の関係者によって完結された。
そうして、すべて世はこともなく、今まで通りの世界はこれからも続いてゆく。